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STIGMATA  作者: maria
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清子がくれる小遣いと言っても、その額はたかが知れているし、無論のことタツキの方からそれをせびることなどできやしなかった。もし、清子が自分の給金をタツキに渡しているなどと知られれば、父はますます激昂するであろう。下手をすれば、クビを言い渡すかもしれない。母は罵声を浴びせ、そして頬を張るであろう。タツキは清子も含めた家族と直接に話すことさえ禁じられているのだから、当然である。しかし、運が良ければ、父に媚びを売ろうと小遣いをくれる大人もいないではなかったが、少しでも内情を知る人はタツキに何かを与えるよりも姉に与えた方が父の心証が遥かに良くなることを知っていたので、ますますそっち方面からの実入りはなくなっていった。タツキが新しい楽譜を買うために、そろそろ部屋にある何かを売りさばこうと思案していた頃、

「タツキさん、夕飯のお買い物お手伝いしてくれませんか。」清子はそう、台所から帰って来たばかりのタツキに呼びかけた。

「え。」

「お醤油切らしちゃったんです。これじゃあお夕飯が作れない。ね、ですから駅裏のお醤油屋さんで。」

そう取って付けたように言って、清子がタツキの手に無理矢理に握らせたのは千円札だった。

「……何本?」

「一本ですよ。そうですね……、お釣りはお駄賃です。」

 タツキは訝し気に清子をじっと見つめた。「……こんなこと、バレたら親父に怒られるぞ。」

「ですから、内緒です。」清子はタツキの手をそのままそっと包み込むようにして札を握らせ、そのままポケットに千円札と共に捩じ込ませた。

「ああ、寒さのせいか腰痛が酷くて、なかなか買い物に出るのも容易じゃない。」大きすぎる独り言が言い終わるや否や、タツキは「ありがと。」と呟くように言って、颯爽と家を出た。父母はタツキに遭遇しても見て見ぬふりをする。もしかするとタツキ自身、本当に見えなくなってるのかもしれないと訝ることも、二度や三度ではなかった。

そんな、いつ挫けてもおかしくない家で、清子の存在はタツキにとって誰よりもありがたかった。自分のポケットに無理矢理小遣いを突っ込む清子の手の温かさが今でもはっきりと残っている。それは決して金だけの問題ではなかった。清子はいつだってタツキの目を見て話をしてくれる。家に帰ると、必ず「おかえりなさい」と言ってくれる。困ったことがあると、何も言わずとも「どうしました。」と尋ねてくれる。あたかも超能力が何かのように。そんな観察力と優しさにタツキはいつも救われていた。父に怒鳴られ、母に頬をぶたれると、ふとした矢先に家出をしよう、誰それ構わずぶん殴ってやろう、学校で収拾のつかないような大問題を起こしてやろう、そう思うまでは一応、思うのである。その、はっきりとしたイメージさえもつくのである。でもその後には必ず悲し気な清子の顔がまざまざと思い浮かんだ。小さな背をもっと小さく丸めて、「タツキさん、どうして……」などと言って、ハンカチを目に押し付ける。震える手が持つのはあの、刺繍入りの白いハンカチ。そればかりは見たくなかった。清子を泣かせるのはどうしたってやってはいけないことであるとタツキは確信していた。だからタツキは勉強の一つもできなくとも学校で問題を起こしたことはなし、家で父母に面と向かって反抗することもなかった。ただ、清子を泣かせたくない一心でタツキは生きていた。

タツキは家から駅前の醤油店へと向かって、一気に走り出した。「ああ、ありがとうございます。助かりましたわ。」そう言う清子の微笑みを一瞬でも早く見たくて。


地元の公立中学に入ると、タツキには新たな友人ができた。タツキが親しくなるのは、なぜだか金持ちの子弟ではなく、どちらかというと片親であったり、親がギャンブル狂であったりと、家庭的にも経済的にも問題を抱えている連中ばかりであった。

その中の一人がある日、うっかり溢した家庭の内情を知って、タツキにこっそりバイトを紹介してくれることとなったのである。無論中学生であるから、大っぴらにすることはできない。けれどもそんな法の網目をかいくぐれる手段はいくらでもあるのだということを、タツキはその時その友人から教えられたのだった。その友人、というのも実際の所親が不在であって、といいつつ不在かと思えば突如現れたりするという、友人曰く「神出鬼没な幽霊」なのであった。二人はクラスメイトとして出会ってすぐに意気投合し、放課後や時には授業中にも、よく通学途中の川べりに座り込んで話をした。

「今親父はさ、関西に行って期間工やってんだよ。」友人のダイシは駅前のパン屋で、夕方になると売り始める、10円で袋いっぱい分が買えるパンの耳を齧りながら言った。タツキも既に何本かを口にしたが、どうにも喉が渇いてきて仕方がない。だからタツキはただ目の前をゆっくりと流れていく川の水面を見つめていた。

「期間工って、……工事すんのか。」タツキは初めて聞く職業名を繰り返した。

「いいや、車のペンキ塗り。」

「凄ぇじゃん。」芸術的なそれを想起してタツキは膝を叩いた。

「凄ぇもんか。三ヶ月したらクビ。そしたらまた別の仕事を探すしかねえ。車の仕事がない時は、トラックの長距離運転もしてっけど、あれは腰が痛くなってダメらしい。その繰り返し。否、繰り返せればマシって感じだな。下手すっと駅前とか公園でぶらついてるらしい。仕事貰えるまで。」

「そんなもんか……。」

「だから何ヶ月も帰ってこねえんだけど、突然ひょいと帰って来る。巧くいきゃあ金をくれることもある。」

「それって、親父さん所に一緒に住んだ方がよくねえか。」

「職場の寮は、親父しか住めねえの。」

タツキはそういうものか、と小さく肯いた。

「家族一緒に住めるってえのは金持ちの証だ。」

タツキは遠い目をしてそれを聞いていた。できたばかりの親友に、はっきりと相いれないと切り離されてしまったような寂しさが沸き起こった。だから、「俺、……中学出たら、家出んだ。」そう唐突に呟いた。

「ああ、俺も。」当然の如くダイシは微笑みながら答えた。「どこ行く?」

「どこでもいいんだ。うちじゃなけりゃあ。」

ダイシは暫くの間黙っていた。

「……お前んちって、K駅前のでけえ病院だろ? 金持ちでも、色々あんだな。」

 「金あるのは親だけだ。俺は違う。」

 ダイシは不思議そうにただ遠くを眺めていた。

 「……なあ、お前んちはさ、何でお前に関心がないの?」

 タツキはその率直な問いかけに思わず噴き出した。「俺が医者になれねえから。」

 「医者じゃないとダメなのか。他にも稼げる仕事はあるだろう?」

 「稼ぐ稼げないじゃなくってさ……、」タツキは自嘲的な笑みを浮かべる。「医者じゃないとダメなの。人間じゃないの。うちじゃ。」

 ダイシは目を見開く。

 「……そんなもんか。」

 「俺だってさ、病気だの怪我だので、死にそうな人間の命を助けられるってえのは、純粋にかっこいいと思うよ。親父は俺のこと嫌ってるけど、それでも俺は親父のこと凄い人だと思ってるし。……毎年さ、うちに届くお歳暮だ中元だって、量が凄いんだよ。何なのこれって、前に清さんに聞いたら、全部親父が手術して命を助けた元患者からなんだって。そんな風にさ、毎年毎年贈り続けてくれる人が大勢いるって、相当だろ。母親だって、……あの人、日本一頭いい大学出てんだ。姉ちゃんだって、多分そこ行く。そこの、医者になる学部に入るんだって、そのために毎日朝から晩までずーっと、勉強漬けさ。そんなこと俺には絶対できないし。みんな凄いんだ。俺だけが、マズイんだよ。脳みその出来がさ、こう、……全然違っちゃってるんだ。」

 「でも……、お前ピアノ巧いじゃん。この前合唱祭で弾いた時もさ、伴奏賞なんて貰っちゃってさ。音楽の先生だって偉ぇホメてたじゃん。」

 「ピアノがいくら弾けたってうちじゃあ、何の足しにもならねえよ。」自嘲的な笑みを浮かべ、タツキは尻の隣に生えていた芝を毟り、川に向かって投げた。

 「何か、……偏屈な人たちなんだな。」

 タツキはうっすらと頬に笑みを浮かべながら、流れゆく川面の芝を見つめていた。

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