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STIGMATA  作者: maria
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 タツキの生活に始めて通勤時間なるものが生じた。初日こそ引っ越しついでの車通勤となったが、帰りは電車である。これから毎日のようにこれを利用するのだと思い、タツキは翌日早速、生まれて初めて定期なるものを購入した。それを持つと長髪の身でありながらもまるで一介の社会人になったような気さえする。タツキはそれを財布の中に入れ、時折眺めては喜んだ。

 タツキは昼の電車でライブハウスへと赴き、仕事とバンド練習を終えると始発で家に帰るのを常とした。普通一般の社会人とはまるで異なる時間帯であったが、清子は音楽家とはそういうものだと頑なに信じ込み、朝早くから起きてはあれこれと帰宅してきたタツキの世話を焼くのであった。

 タツキさんにとってはお夕飯なのですから、と朝食とはとても呼べない程豪勢な食事を朝から作る。

 昼間タツキが寝ている時には清子はアオイを家から連れ出して散歩をしたり、庭で遊んだりしてやっていた。別段家にいても声を発することがないアオイがタツキの睡眠を邪魔立てすることはないのであるので、それはアオイの発育を促すためというのが大きかったのに相違ない。

 アオイは庭でボール遊びをしたり、水遊びをしたり、清子に子供らしい遊びを教えられ、にわかに夢中になった。体つきも今まではどこかふにゃふにゃと頼りなく感じられたものであるが、各種遊びのお蔭で、大分しっかりとしてきたのである。歩き方も力強くなり、始終眠たそうなそぶりもなくなった。

 そしてタツキがそろそろアオイの好きなウサギだの猫だのを飼ってやったらいいかな、と思っている矢先、近所の家庭で(近所づきあいなどタツキは全くしていなかったが、そこは清子が率先して行っていた。清子のお裾分けする料理は近所でも既に大評判となっていた。)アメリカンショートヘアを飼っている家で子猫が産まれたというので、その一匹を貰ってくれないかという話があったそうなのである。

 「よろしいでしょうかねえ。」

 朝方、帰って来たばかりのタツキを、清子の隣でアオイも全く同じ心配そうな顔つきでじっと見上げていた。

 「お世話は私と、アオイさんで責任をもってちゃあんと、致しますので。タツキさんにご迷惑はおかけいたしませんから。」

 アオイも頷く。アオイがしっかと抱え持っているスケッチブックには、丁寧に灰色のクレヨンで猫の絵が描かれているのである。

 「よろしいも何も。」タツキはアオイの前にしゃがみ込んだ。

 「前、約束してたもんな。アオイの好きな猫飼ってって。良かったじゃねえか。くれるなんていうんなら、願ったり叶ったりだ。」

 「ああ、ありがとうございます。」清子が感極まって言った。アオイもその隣で一層スケッチブックを抱く力を強めた。

 「では、早速今日、アオイさんと一緒に熊谷さんのお宅にお伺いして、貰ってこようと思いますよ。一匹ですねえ、小さな女の子なんですけれど、とてもアオイさんに懐いている子があるんですよ。ねえ、アオイさん。」

 アオイは照れたように俯く。

 「何度かおすそ分けがてら熊谷さんのお宅にお邪魔させて頂いて、アオイさんも抱っこしてるんですよ。ぺろぺろって、すぐにアオイさんのお手々を舐めたりして。」

 「ふうん。」タツキはどっかとソファに座り、「そんで、……名前は何にすんの。」と問うた。「猫の名前、必要だろ?」

 「ああ、そうですねえ。……アオイさん、お名前考えませんと。今日はその子のお顔を見ながら、ようく、お名前考えてみましょうか。そしてタツキさんにお教えして差し上げましょう。ねえ。」

 アオイは口角を上げた。それはおそらくアオイの微笑みなのであった。アオイはほとんど感情というものがなく、傍目には人形の如き無表情であったが、昨今注意深く見ていると笑み、が時折見られるようになってきた。

 東京に来てから、子どもの心の問題に詳しいというカウンセラーの所へ、清子が月に一、二度ずつアオイを連れていっているが、そこでの話によれば、表情が表れてきたならば、次第にそれと連動する形で言葉も出てくるであろうとのことであった。今まで親から離され病室に籠りきりにされてきたのが言葉の出ない原因なのであるから、様々な刺激を与えることでそこは改善していくであろうということなのである。その「刺激」のためにも、動物を飼うことはよいことに思えた。

 「そうだな。じゃあ、アオイ。俺そろそろ飯食ったら寝るから、起きたら猫見せて。そして名前も教えてよ。」

 アオイはこっくりと頷く。

 「どんな猫ちゃんかなあ。……灰色なの?」

 アオイは再び肯く。

 「にゃーんって、鳴いた?」

 アオイはまた肯いた。

 「そっか。そりゃあいいな。猫ちゃんと一緒に暮らして仲良くなったら、今度動物園にも行ってみよう。もっともっと色々な動物がいるから。」

 アオイは清子を振り返った。

 「そうですよ。動物園には絵本に出てたうさぎも、ライオンも、しまうまもいるのでございますよ。」

アオイは信じられないとばかりに口を半開きにした。

 「そうしたら水族館も、遊園地も色々行くんだから。アオイがうっかり声を出したくなるようなものをこれからいっぱい見るんだよ。」

 アオイは体をぶる、と震わせた。タツキはにっと笑って、アオイの頭を強く撫で摩った。

 「楽しみだな。」


 しかしそのいずれよりも早く到来したのがツアーであった。家族の事故死の一週間前、I AM KILLEDのCDがリリースされ、その発売に合わせて東名阪ツアーが組まれることとなっていたのである。

 とある休日、タツキは部屋でギターの練習をしているとそこにアオイがやってきた。それに気づいたのは、タツキの部屋の入り口で、アオイの足元にいる、新しく家族の一員となったモモがにゃあんと挨拶をしたからである。

 猫が家にやってきたその日、アオイは懸命にスケッチブックへと向かって知る限りのひらがなを書いていたという。その中でアオイが最後に書いたのが、というよりは書いて満足したのが、「も・も」という字だったそうなのである。

 「もも、ももちゃんにします?」清子は感極まったように言った。

 「アオイさんもお花の名前でございますし……」そこまで言って、アオイの母親も、それから祖母も、やはり名前には花の名であったことを清子は思い出し、息を呑んだ。これは偶然であるのか、それとも何か感ずるところがあるのか。

 「いいお名前でございますよ。」

 そこにタツキが起きてくる。早速家に猫がいるのに、タツキは瞠目した。

 「おお、猫じゃねえか!」

 タツキは猫の前に座り込んだ。「おお、おお、可愛い猫ちゃんだ。」そっとその小さな頭を撫でてやる。ころころ、と小さく喉を鳴らした。

 「で、……名前は決めたのか?」

 「そうですよ。今決まりました。……さあさ、アオイさんそれを見せて差し上げて下さい。」

 アオイは恥ずかし気にスケッチブックをタツキに見せた。そこには色々な文字とも読めぬ文字が書かれた中に、「も・も」と書かれていた。

 「モモ! モモっつう名前にしたんか。」

 アオイは心配そうにタツキを見詰める。

 「いいじゃねえか。呼びやすいし、可愛いし。こいつにぴったりだ。」

 アオイは嬉し気にモモを抱き上げる。モモはぐん、と胴を伸ばされた形になったがそのままじっとしていた。大人しい猫なのだな、とタツキは思った。これならばアオイと仲良くできそうだ。安堵の笑みが零れる。


 モモはアオイと相性が良かったらしい。思えばアオイは他の子供と違って、騒いだり暴れたりすることは全くないのであるし、猫にとっても心地よかったのであろう。あっという間に一人と一匹は分け隔てなく行動を共にするようになった。

 家のどこにいても、アオイの元をモモは付いて回った。アオイが清子と風呂に入っているとモモは脱衣所でちょこんと待っている。アオイがトイレに入っていても同じである。アオイも、モモとであればスケッチブックで筆談をする必要もないので、一緒にいる時には随分リラックスしているようにも思えた。


 そのいつもの一人と一匹がタツキの部屋の扉を開け、じっと自分を見ているのである。

 「いたのか。おいで。」

 アオイとモモは揃ってタツキの近くに歩み寄る。

 「アオイはもしかすっと、……お前、ギター、好きだろ。」

 アオイは無表情のままタツキの顔をじっと見つめた。タツキはアオイの頬をいたずらっぽく突いてやった。

 「前も俺がギター弾いてる時、ここ来たもんな。もしかして音楽が好きなのか? ……てか、俺が家にいる時は大抵ギター弾いてるから、つうのもあるか。」

 「にゃあん。」そうだ、と言わんばかりにモモが答える。

 「ここ、座んな。」タツキはベッドを指す。

 アオイはよいしょとそこに腰掛け、その膝の上にすぐさまモモが乗った。

 「弾きたくなったらいつでも言えよ。教えてやるから。」と言ってタツキは再び弾き始める。

 アオイはじっとそのメロディに耳を傾けている。

 もしかすると――、タツキはその様を見詰めながらこんなことを思った。アオイが口を利けないというのをどこか楽観視しているところがあるのは、自身、言葉ではなく音楽を通じで自己表現をしているからではないのか、と。無論自分が口が利けないという事態になったならば、それはそれで大変であるし、当然今まで通りの仕事はできないであろう。でも、アオイはまだまだこれから大人になるのには十分すぎる程の時間がある。暫く口が利けなくて、それが何だというのであろう。もし一生言葉が出なかったとしても、自己表現をするには音楽もあれば、アオイが好きな絵もある。音楽を生業としている自分にとっては、言葉が出ないという事態はそれほど大きな悲劇であるとは思えなかった。

 タツキはにっとアオイに微笑みかけ、アオイの好きなアメイジング・グレイスを弾いた。流れるようなメロディにアオイはほんの少し、体を揺らしていた。

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