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「ありがとうございます。」タツキは頭を下げる。
「いやあ、こっちこそお茶に旨いケーキまでご馳走になっちまって。引っ越しなんつっても、大したことねえ量なのによお。」店長が笑いながら言った。
「いや、それじゃなくって、アオイのこと見ても、普通に対応してくれたじゃないすか。ありがとうございます。」
「ああ……。」三人はそう漏らすと押し黙った。
「地元から新幹線で来た時、帽子被して顔、目立たねえようにはしてたんですけど、やっぱ東京来ると結構人多いし、駅のホームなんかでも見るとぎょっとした顔する人多かったから、びっくりさせちまうかなって思ってたんです。前もって言っとけばよかったんすけど。何か、何つっていいのかわかんなくて……。」消え入りそうになった言葉を、
「可愛い顔してるよなあ。」ショウが断ち切ってみせた。「眼なんかぱっちりしてて。いやあ、あの子将来絶対ぇ美人になるぞ。」
「そうそう。」レンも後部座席から肯いてみせる。「しかもさ、あれ痣なんか。ブラックメタルの連中なんざ、死ぬほど羨ましがるだろう。あのメイク。」
「メイクじゃねえし。」タツキは安堵の笑みを漏らす。
「大きくなったらうちの物販とかやってくんねえかね。あの子目当てに客が買ってくれそうだ。」ショウが言った。
「そうそう。」タツキははっとなった。「あのさあ、今度、いつか、アオイのことツアーに連れてってもいいかな。」
「え。」
「いや、全部はさすがに無理だけど、日帰りか一泊ぐれえで都内に戻ってこられるような所でさ……。」タツキはそこまで言ってから悔し気に、唇を噛んだ。「アオイさ、今までずっと病院の中だけで生きてきたんだよ。」
「そんなにどっか悪かったんか。」店長が思わず身を乗り出す。
「否、単にあの顔だから親たちが家に戻したくなかったらしいんです。一応痣の治療はしたみてえなんだけど、そもそも治るもんじゃねえみてえで。世間体がよっぽど大事だったんかな……。まあ、今となってはわかんねえすけど、とにかくアオイは家に帰ることもできねえで、生まれてからずっと病院で入院生活。で、三年間一回も親が見舞いに来ることもなく、月に何度かさっきの清さんが行って、世話してたっつう状況なんです。だから喋れもしねえし、笑ったり泣いたりっつうこともねえし。カンモク? っていう病気みてえで、不安とか心配とか、そういうんで喋れなくなるみてえなんです。まあ、そっちの方は結構成長すると治ることが多いってことで、東京でいいお医者さん探して治療していく方向なんですが。……アオイはとにかく今まで病院の中しか知らねえで生きてきたから、これからはあちこち連れていって、色んなモン見せてやりたくって。」
三人は言葉を喪った。
「……そういうことならさ、別にいいじゃん。」レンがそう言って微笑んだ。「ちょっと車乗って俺らと一緒に遠出さしてやるぐれえ、別に危なくもねえだろ。一番危ねえのがライブか。」思わず自分で言って自分で噴き出す。「でもまあ、楽屋から耳栓突っ込んで観させてやるぐれえならさ、問題ねえんじゃね。」
「そうそう。そんでそのまま大きくなったら物販やってもらえば。」
「お前、拘るな。」タツキは声を出して笑った。
それからはタツキにとっての日常生活がいつものように始まっていった。ライブハウスに戻れば今日のライブの準備である。店長とアルバイトと共に指定されたアンプを指定された場所に移動させ、ドラムセットを簡単にセッティングしておく。それから当日券を準備し、飲み物を仕込む。
ドリンクを冷蔵庫に運び入れていたタツキに、後ろから店長が不意に声を掛けた。
「あの子な。」
「え。」
「お前の姪っ子。」
「あ、ああ。」
「うちなら、いつでも連れてきていいかんな。」
タツキは微笑み、「ありがとうございます。」と言った。
「あと、……ばあさんも。」
「あははは。ありがとうございます。言っときます。」
「……うちでオペラはやったことねえけど。」
「そうですねえ。でも、清さんはオペラが好きなのかなあ。んな話聞いたことねえなあ。ありゃあ、母親に付いてっただけのような気がすんなあ。」
タツキはそうぶつぶつ言いながら、再びドリンクボトルを冷蔵庫に入れていく。店長はそこで暫く立ち竦んでいた。
「お前みてえな真っ直ぐな人間がさ、どうやって育ったのかわかったような気がするよ。育ての親だな。」
そう、ぷつんと言い捨てて店長は入口へと戻って行った。
「……え。」言葉の意味を理解して振り返った時、だからそこには既に店長の姿はなかった。タツキは真っ直ぐって何だ、と反芻してみたもののやがて目の前の仕事にそれも忘却していった。それよりも今日のライブのリハがそろそろ始まる。準備に漏れはないか、そんなことに没頭し始めて行った。
後の壁に寄りかかり、眩く輝く照明を細目に見ながら、タツキはふとこれからのアオイのことを思っていた。
おそらく顔の痣は治らないであろう。医師の親が金と縁故にものを言わせ三年間も入院させたのに、治っていないのだ。それでアオイはこれからどれだけ傷付くことになるのであろう。外に出れば見も知らぬ人間から奇異な目で見られたり、学校に行き始めればいじめを受けたりもするかもしれない。ただでさえ親の愛情を受けずに育ち、心に傷を負っているというのに、そんなことが起きればアオイは完全に壊れてしまうかもしれない。
――でも果たしてそうなのだろうか。
自分が親から生存の価値を否定され、存在さえ否定され、それでも生き延びることができたのは、自分の心がとりわけ強かったというのではなく、清子が傍にいてくれたからだ。どんなに否定されても清子が笑いかけてくれ、あれこれ案じてくれ、褒めてくれればそれで幸せだった。血の繋がりのあるアオイだって、きっと同じだろう。だとすれば、――タツキは頬に笑みを浮かべた。自分がとことん、愛してやればいい。世間の嘲弄なんぞ耳に入らぬぐらいに、褒めぬいてやればいい。お前が必要で、大切で、可愛いということを嫌という程に伝えてやればいい。
「よし。」タツキは小さく呟いた。