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「ありがとうございます。助かりました。ちょっと、茶でも飲んでって下さい。」タツキはそう言って荷物を持ち出そうと後部座席を開けた。慌ててショウが布団を掲げ、レンがアンプその他諸々の機材を持ち運ぶ。
門を開けると足首を埋める程の芝生が茂っている。真っ直ぐ玄関まで続く石畳を歩くと、重厚そうな玄関の扉があった。タツキが鍵を取り出そうとすると、「おかえりなさいまし。」と清子の甲高い声が響いて、ぎい、と音を立てて扉が開かれる。
「まあまあ、お引っ越し大変ご苦労様でございました。さあさ、どうぞ中にお入り下さいまし。」
時代錯誤的な話し方に三人は面食らった。
「今ね、タツキさんの好物のカボチャケーキをね、アオイさんと一緒に作ってみたんでございますよ。どうぞお味見なすって。皆さんも、お口に合うかわかりませんけれど。」
にわかに三人にはタツキが金持ちの子息であるということが、はっきりと、この上なくはっきりと、確信された。お手伝いさんに甲斐甲斐しく世話をされている人種というのを、初めて目にしたのだ。自分とは住む世界が違う。そんな劣等感、というよりは異郷を見るような好奇心に三人はこぞって口を噤んだ。
リビングに通され、見たこともない大きなソファに座らせられると、アイランドキッチンの向こうから「皆さん方は、タツキさんと一緒に、音楽をなすっているんですねえ。」清子がケーキを切り分けながら問いかけた。
「私は、」ショウは思わず一人称さえ変わってしまう。「ドラムを叩いております。太鼓でございます。」
「ほお、太鼓でございますか。それは風流ですねえ。」
デスメタルのドラムが風流だと言われたためしは、無論ない。
「あなたも。」清子は顔を上げ、レンににっこりと微笑む。
「いえ、私は、」やはり一人称が変わってしまうのである。「歌でございます。歌。」
「まあ。そうでございますか。お歌は心を揺さぶりますよね。私も奥様に連れられて、オペラを聴いた時には、言葉はまったくわかりませんでしたけれどもね、こう、つーと涙が伝いましたですよ。」
タツキはティーカップを三人の前に並べた。
「あなた様は、何でございますの。」
「私は、」ついに店長の出番である。「音楽堂を経営しております。タツキさんに長年お手伝い頂いて。」
「まあ。」清子は口に手を当てて、目を丸くする。「これはどうも、社長様でございましたか。タツキさんがお世話になっておりますです。本当に、どうも。」深々と頭を下げた。
「いえいえ」安月給ですから、と本当のことは言えない。
「さあさ、どうぞ召し上がってくださいまし。」と言って並べられたオレンジ色のカボチャケーキを、タツキが真っ先に口に入れた。
三人もごくりと生唾を呑み込んで、それに倣う。
「うまい。」店長がほとんど反射的に言った。
「ああ、良かった。社長さんのお口に合って。」
「マジだ、うめえ。」思わず平生の口調になってしまったシュンは、それを訂正することもなく「これ、店出せますよ、店。」と慌て出す。
「清さんの飯は何でもうまくてさあ、俺の友達なんて握り飯にも感激してたぐれえだから。」タツキは誇らしく言った。
「あら、厭ですよ。おむすびなんて。」清子はエプロンで顔を隠す。
「本当に、うまいですよ。俺、人生で初めて。こんなうまいカボチャケーキ食ったの。」
「まあまあ、大げさですよ。でも、……嬉しいですわ。」
「あ、ねえ、アオイは?」
「そうですよ、アオイさんがいっぱい、いっぱい、お手伝いしてくだすったんですから。かぼちゃの種をほじくるのも、とってもお上手で。アオイさんのことを褒めて差し上げてくださいまし。」清子は周囲を見回し、アオイを探す。
アオイはアイランドキッチンの陰からそっと顔を覗かせた。
「アオイちゃん、そこにいたの。おいで。こっちで一緒に食べよう。」
タツキに朗らかに言われてアオイは俯いたままゆっくりと姿を現した。その時、三人はアオイの顔の異変に気づいた。すなわち、顔の広範囲を黒い染みが覆っているということに。
「アオイは何手伝ったの? かぼちゃの種取るのと、他にも何かやった?」
「そうですよ。メレンゲ作りもね、一緒にやって下さいましたよね。アオイさんが一生懸命掻き回してくだすったお蔭で、こう、ふんわりとね、出来上がったんですよ。」
アオイは俯いたまま固まっている。タツキは「緊張してんのか。何も怖くないのに。」と、アオイを抱きかかえた。三人ははっきりと、アオイの顔を見る形になった。見れば見る程その愛らしい顔とのギャップが明確化していく。何か言葉を発しなければ、という思いをどうにか体現したのは店長であった。
「アオイちゃんは、何歳?」
アオイは俯いたものの、清子に促され指三本を突き出した。
「ほお、三歳。……うちの姪っ子もね、ちょうどそんぐらい。来年幼稚園だって。」
「アオイちゃんは恥ずかしがり屋さんなのかな?」緊張が解けるのは速かった。レンもそう笑顔で尋ねる。アオイは再び俯いた。
「アオイはね、話が苦手なんだ。だからこうして、」タツキはアオイが抱き締めているスケッチブックを指さした。「画用紙持ってんの。これにね、このクレヨンで言葉を書くの。」
「へえええ。」店長が感嘆の声を漏らす。「うちの姪はまだまだ字なんて書けねえぞ。」
「アオイさんは、二つの頃から字をお書きになっておりましたです。」清子が自慢げに言う。
「アオイ、ほら、何か書いてみたら。まずはご挨拶だろう。」
アオイはタツキの膝から降ろされ、テーブルの脇にスケッチブックを広げた。三人は興味深げにその様を見守った。ぺら、ぺら、と捲られる画用紙には多様なひらがなが躍っている。
た・つ
き・よ
あ・お・い
そんな字が多かった。
アオイはその脇にクレヨンケースを開け、小首傾げて群青色のクレヨンをしっかと握り締めた。そして画用紙いっぱいに、こ・ん・に・ち・わ と書いた(んは波が一つ多かった)。
「おお、こんにちは、こんにちは。」店長は感極まってアオイの手を握り締め、握手を交わす。
「アオイちゃん、こんにちは。」改めてショウとレンも頭を下げた。アオイは照れたように俯いた。
「三歳にして字書いて話をすんのか。賢いなあ。」店長は腕組みしたまま唸った。
「アオイの両親は、めちゃくちゃ頭がいい人すから。スケッチブックもね、東京来て買ったのにもうこんなに一杯なの。」
三人の客はアオイのスケッチブックを手に取り、声無き人の思考を辿っていく。
たつ・きよ・あおい。
これが一番多かった。中でも簡単なためか、「たつ」が多かった。誇らしげに大きく書かれているページが幾つもあった。そして捲って行くと、「まま」「ぱぱ」。それを見つけて、三人は不意に胸を突かれる。おそらくは親の死ということも知らないし、そもそもわからないに相違ない。でも会えぬその人を思ったであろう筆跡が哀しかった。
「じゃあ悪いけどさ、また俺職場に戻らないとなんないから。」そう言ってタツキは立ち上がった。「仕事終わるの夜中だし、その後もバンドの練習で遅くなる。帰りは朝方。だからアオイ寝せて、清さんも先寝ててね。マジで頑張って起きてられっと困るから、早く寝て。」
「まあ、まあ、そんなに頑張ってらっしゃるなんて。」でも口出しはしない方針らしい。「どうぞお体に気を付けて。朝ごはん作って待っておりますから。」
再び店長の運転するバンに乗り込み、タツキたちはライブハウス「ワイドグライド」へと向かった。