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タツキがライブハウスから住居を移したという話は、バンドマン界隈をあっという間に駆け巡った。しかし誰よりも瞠目したのは、他ならぬその第一声を聞いた店長である。両親の悲報を受け、とりあえず故郷に返したものの、何せ中卒以来ずっと住み込みで働かせている従業員のご両親である。弔問に向かうべきかと礼服を用意した矢先に、タツキが不意に戻ってきて、ここから引っ越しをさせて貰います、と、今までの主張をがらりと変えたのだから、驚いた。
「……マジか。」
「マジっす。すんません。俺、ここに骨埋めるつもりだったんですが。その、今も言った、育ての親であるばあさんと、それから姉貴の娘に当たる姪と暮らすことになって。あ、でもバイトは続けさして下さい。わがままですんませんが、ぜひ。」がば、と勢いよく頭を下げる。
「否、最初っからアパート探せっつってたのは俺じゃねえか。何も謝ることはねえ。元々ここは音楽を演るところであって人の住む場所じゃねえんだから。」
「すんません。」再び繰り返す。
「で、ご葬儀はもう済んだのか。……その、俺も行かせてもらおうかと思ってたんだが……。」
「はい。何でもあの電話くれた弁護士さんが俺の行方を捜している途中に、親父の職場の人がやってくれたみてえで。」
「そうだったんか。……色々大変だったな。」何せ一家全員が事故死をしているのである。事故を知ってから店長は新聞を各紙買い漁り、普段は点けもしないテレビも見たが、信じられないぐらいの偶然の重なった結果であるとしか思えなかった。こんなことが身近で起こってしまったことを、どこか信じられずにいた。
「俺は全然大変でも何でもなくて、その、ばあさんが。全部仕切ってやってくれました。俺の育ての母みてえな人なんです。もう年も年だし、これからはのんびり楽しく過ごさせてやりたくって。そんでこっから引っ越して一緒に住もうって決めたのも、あるんです。」
「そうだったんか。……で、新しく住むところは決めたのか。」
「はい。親父の別荘があるんで。」
「別荘だあ? そりゃあどこにあんだ? 通えんのか?」
「ええ。通えます。Sなんで。」
「S? ……高級住宅街じゃねえか。あんなところに別荘があるんか?」
「ええ。親父、金持ちなんで。」一切嫌味の無い言いぶりに、店長は怯んだ。
「か、金持ち、なんか……。」
「そうっす。俺とは一切関係ねえすけど。親父、でけえ病院経営してて、じいさんが元々病院経営やってたんすけど、それ引退してから政治家やってて、その更に先祖みてえな人たちもよくわかんねえすけど、江戸時代からみんな挙って医者で。俺んちは代々医者なんです。俺だけが医者じゃねえんです。」
確かに金持ちの息子であるらしい、という噂は聞いていたが、意想外に過ぎる発言に店長は目を剥いた。「……な。」
「俺だけが頭悪くて、勉強ができなくて、医者にはなれなかったんです。医者になれねえ人間はあの家の人間じゃねえ。だから俺はあの家を出てきたんです。」
店長は今まで薄々感じていたタツキに対する、違和感、というかどこか育ちの良さのようなものの原因がはっきりとわかり、俯いた。「……でも、医者になれるのなんて無茶苦茶頭のいい一部の人間だけだろ。んなのになれる方が、異常じゃねえか。」
「あの家じゃそういう理屈は通用しねえんです。でも俺はそれを家出て五年経ってまで憎んでるんじゃねえ。それよりも、俺はこれからばあさんと姪っ子を幸せにしてやりてえんです。だから、……すんません。この通り。」
「だ、だから謝ることじゃねえって言ってるだろうが。こら、頭上げろ! じゃ、早速引っ越しっつっても……、そんな荷物もねえが、車出してやるから、とっととやっちまおう。」
「あ、メンバーも来てくれるみてえで。」
その日の午前中の内にライブハウスにやってきたショウとレンは、それぞれタツキの少ない荷物を持ち、店長の運転するバンに運び入れた。
「お前、マジでこれっぽっちなのか。」ショウが機材と布団、パソコンにCDとその他少々といった風情の荷物を見て言った。
「一応五年も住んでたんだろ……。」
「そりゃそうだが、これで全部だ。ま、もし忘れモンがあっても、職場には毎日通う訳だし、何てこたねえ。じゃあ、今晩もここでライブあんだからとっとと行きましょう!」
店長はエンジンをかけ、三人と荷物を積んで走り出す。ビルディングの間をすり抜け、半信半疑ぐらいの体で店長はSに向け走り出した。たしかあそこは芸能人だの政治家だの経済人だの、そういう人間が豪華な居を構えているという街ではないか。そんな場所には無論かつて一歩も足を踏み入れたこともない。
「お前、マジでSなんかに家持つんか。」ショウが念押しするように問うた。
「俺のじゃねえから。親父の別荘。」
「でも、その……、亡くなった親父さんの家をお前が相続すんだろ。」店長が尋ねる。
「姉さんも……いねえし、俺しか相続できる人間がいねえんです。そんなのいらねえって思ったんだけど、清……ばあさんとアオ……姪の行き場がなくなっちまうのは絶対困るし。実家は遠くて俺はさすがにちょくちょくは戻れねえし。だからこの、親父が学会とか出る時に使ってた別荘を、住居として使わしてもらうことにして。……でも、俺はバイトで暮らしてくつもりなんです。清……、俺の育ての親も、そんでいいって言ってくれてるし。」
とはいえ、そんなにも富裕な親であれば相当な遺産も入って来るのではないか。ましてや交通事故で亡くなったと言えば、高額な保険金も入って来るのではないか、バイト生活なんぞ一生涯無縁に生きることができるのではないか、とはさすがに口にはできないが店長は首を捻った。
「……お前、欲しいモンとかねえの? 荷物もこれっぽっちだし。」レンに問われ、「欲しいモン?」タツキは顔を顰める。「それよりもいい曲書いて、それ引っ提げて全国回って、そっちのが大事じゃねえか。バンドマンなんだからよ。」
「へえ。……俺は欲しい機材が色々あんな。」レンは正直に答える。
「そりゃ機材は大事だけど、ギターはずっと前にピアノの先生から貰ったGibsonのFLYNG V一つあれば十分だし。アンプだの足元関係ならほら、店長がさっさと仕入れてくれっから、それ試して、自分に合ってるなって思えば給料の範囲内で買えばいい。それ以上のモンを欲しいと思ったことは、……まあ、ねえな。」
「坊さんみてえだな。」レンは軽侮と尊崇の入り混じった眼差しで見る。
「おい、そろそろ着くんじゃねえのか。」車窓は既に都心とは思われぬ家々を捉えていた。
「ああ、そうそう。その角、右です。」タツキが平然と言い放つ。
「おいおい、あの家見ろよ。プールじゃねえか。プール。」
「おい、あっちも見ろよ。見たことねえでけえ犬がいる! 何だあれ! 動物園か。」
「ああ、そこそこ、その突き当りの家です。」
店長がおそるおそる車を停めた先には、たしかに「IWAMURA」の表札の掲げられた、この一帯においてもとんと見劣りのしない、というよりは一層敷地面積の広い一角に西洋風の豪邸があった。
タツキ以外は皆息を呑んで黙した。




