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閑静な住宅地の一角にあるその西洋風の屋敷は、そう、屋敷というにまさに相応しい佇まいであった。
重厚な煉瓦造りの壁に、陽光を一心に得て輝かしく照った赤い屋根の上では、風見鶏がくるくると軽快に回っている。幾つもある白木で枠取られた窓々からはそれぞれ揃いの純白のカーテンが掛けられているのが見え、その、僅かに開いた隙間からはシャンデリアが覗いていた。見間違いであると思おうとしても、目の前の表札には金字でIWAMURAとはっきりと刻まれているし、よくよく考えてみればこの作りは自宅のそれと非常に似通っていて、つまりは父親の趣味なのである。そういえば何とかという建築家の名前をよく挙げていたっけ、と、もうどう頑張っても出てこない記憶をタツキはぼんやりと思い起こしていた。清子は清子で青々と芝生が茂っている庭と、たった今手入れされたとでも言わんばかりに青々と輝いている樹々に、かけられた労力、すなわち金銭に知らず嘆声を漏らした。
「ここに、……住むのか。」タツキはそう溜め息交じりに言った。落書きのなされたコンクリート壁のライブハウスの楽屋とは雲泥、月とすっぽんでは済まされない程の差である。
「タツキさんのご相続ですから……。」清子もその隣で呆気に取られている。
気付けばタクシーの中でつい先ほどまで眠っていたアオイもぱっちりとその目を見開いて、突如目の前に表れた洋館をただただ見上げていた。
三人は意を決して門の中へと入った。芝生は足首まで埋める程よく育っており、庭の端には一体白磁の女神像なんぞが天空に手を伸ばしているのである。タツキは呆気に取られながらそれでも弁護士から渡された鍵で、玄関扉を開けると、しかし驚愕がより一層強まっただけであった。玄関先だというのに、いかにも高価そうな調度品の数々。玄関を入って向かいに掲げられた巨大な、古めかしいヨーロッパの農園を描いた絵。大理石の床、黄金色の猫脚のテーブルに揃いの椅子。タツキは自宅が突然東京に現れたような錯覚さえ覚えた。これが父親のものであるのならば何の問題もない。父親は富裕なのだ。それに見合った能力もある。ただ自分は――。一介のバンドマン。しかもそれによる収入はほとんど、ない。ライブハウスでのバイトが生活資金である。
「あの、さ。」玄関で早速行き先を喪い、タツキは清子に向き合った。
「何でございましょう。」
「俺、今バイトしてんだよね。その……、音楽では食えないからさ。」
「ええ、存じております。」
「だから、……こんな豪華な家に住めて嬉しいかも、しんねえけど、……その、生活は切り詰めたものになると思うんだ。実際、稼ぎねえし。」
「まあ。」清子は目を丸くする。タツキは背を丸めた。「何を仰ってるんです。ここまで連れてきていただいて、その上タツキさんにおんぶにだっこだなんて、考えてはございませんですよ。」
「え。」
「私が旦那様から長年頂いてきたお給金も、ほとんど手つかずのままそっくりございます。それに私が百歳になるまで過分なお給金を頂けることになっていると、弁護士さんも仰っていたじゃあありませんか。これで十分に三人、暮らしていけます。」
「……そりゃあもっとマズイマズイ。」タツキは慌てて言った。「さすがにさ、ほら、もう20にもなってばあさんに金集って生きていくのはちっと、人非人すぎっから、もし、もし、ね、ほら、アオイが将来いい学校行きてえとかそういう時には、親父の遺産とかそういうのを使うことにして、そういうの以外は、今まで通りに普通の生活でやっていきたいんだ。普通っても人それぞれだけど、まあ、何つうか、基本俺のバイトの稼ぎだけでさ。食費とか電気代とか、水道代とか、そういうのは俺で。だからあんま贅沢はしねえで。……もちろん、清さんが何か欲しいものがあって、自分で買いたいっつうのは、自分の貯金でも給料でも、そっから買ってくれて構わないんだけど。生活はさ、俺の金だけでさ。何でかって言われっと、ちっと、なんつったらいいのか、わかんないんだけど……。」
タツキはそう言って頭を掻いた。しかし清子はゆっくり肯いて、「わかっておりますって。タツキさんは欲のない人です。お金がたくさんあったってそれを自分でぱっぱと使いたいってお方じゃないってことは、この清がようく、わかっておりますって。遠足の時、お小遣い差し上げると、清へのお土産だけ一つ買って来て、それ以外は使わなかったって返してくだすったじゃあないですか。お小遣いのお釣りなんて、初めてもらいましたですよ。ご自分のお小遣いにするとか、ご自分のお土産ぐらい何か一つでも気に入ったもの買ってきたって良かったですのに。そのためのお小遣いですのに。……タツキさんはですねえ、中学校の頃から働きに出て、自分の分は自分でお稼ぎになってきたんですから。お金の大切さをようく、わかってらっしゃいます。いい学校出た人なんぞよりも、そういう所はちゃあんとしています。それを清はお邪魔を致しません。御安心してくださいましな。」
タツキは首を縮めて「ああ、よかった。」と言った。
「さあさ、では生活のほーしん、が決まった所でアオイさん、ご自分のお部屋を決めましょうか。お二階がいいですかしらねえ。何せ見晴らしがいいですから。さてさて、では行ってみましょうか。お二階にお部屋は幾つあるんでしょうねえ。」と言って清子はアオイの手を握り二階へと上がって行った。「タツキさんも、お部屋をお決めになってお荷物置きましたら、お茶を沸かしますので、一階に降りてきてくださいましね。」そう言い残して。




