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STIGMATA  作者: maria
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 昼食を終えるといよいよ、タツキと清子は暫く空ける家の戸締りを注意深く行って、駅へと向かった。

 タツキは清子が近所の雑貨店で購入した、レースの帽子を被せたアオイを背負い、清子の小さなボストンバッグを持って歩いた。

 アオイは腹も満ちてタツキの背で寝始める。清子は東京へ出て行く気持ちの高ぶりがあるのか、タツキに訥々と、しかし一方的に話をし始めた。それはかつてタツキが何度も聞かされたことのある、昔話から始まった。

 「……夫が急死しました時、仕事も無い手に職も無い私はどうやって暮らしていったらいいのか、本当に何もわからず途方に暮れていた状態だったのでございます。そこをタツキさんのおじいさまにお声を掛けて頂き、住み込みでお食事作りとお掃除お洗濯と、サクラ様の幼稚園の送迎と、それから生まれたばかりのタツキ様のお世話をさせて頂けるようになって、それだけでも幸せに過ぎましたものを、過分なお給金まで頂くこととなりまして、申し訳ないやら、ありがたいやら……。でもタツキさんが大きくなられるに従って、お父様とお母様が厳しくなり、一体どうしたらいいものかとタツキ様をお守りしようと苦心しましても、一介のお手伝い風情ではどうにもならず、タツキさんが中学卒業と同時におうちを出られてしまい、暫くはなんだか、何をやっても寂しくて涙ぐんでしまって、今頃タツキさんはどうしてらっしゃるか、都会でお金や食べ物に困っておられるんじゃないのか、でもそれをお送りするにもお住まいもわからず、何だか生きがい一つなくしたようにしておりました時に、サクラ様のご結婚が決まり、間もなくご懐妊となり、アオイ様がお産まれになったのでございます。アオイ様は、お父様の病院の産婦人科で、待望の第一子として、大切に大切に、育てられる筈でございました。しかしアオイ様との最初の御対面より帰宅されたお父様は、お顔を曇らせまして、今思えば、お知り合いの皮膚科のお医者様にでもお電話なさっていたのでしょう。あちこちに電話を掛けておりまして、アオイ様はおうちに帰られることもなく、そのまんま入院されることとなりました。私はその間病名も知らされず心配で、心配で……。三ヶ月も私はアオイ様にお会いすることができなかったのです。ただ、サクラ様からは、命にかかわるものではないのだから、とだけ教えられ、……そして、ある日突然、奥様よりアオイ様に着替えとおむつを届けてほしいと言われまして、病院に参りました。初めて見るアオイ様はとてもかわいくて、かわいくて、タツキ様がいなくなられてからぽっかりと空いた心の穴か、みるみる満ちていくようでございましたよ。そこで私はアオイ様のお顔に痣があるから、その治療をなさるために入院をされているのだと知りました。でも、でも、治るものではなかったのでございます。だのにアオイ様はおうちに帰ることが許されず、私はそれから毎月一度ずつ、アオイ様のお顔を見に、病院に通いました。こんなに可愛いお子を、どうして遠ざけておけたでしょう。タツキさんのこともそうです。……私は奥様旦那様を心から尊敬しておりますが、どうしてタツキさまアオイさまに冷たい仕打ちをされたのか、そればかりはわかりませんでございます。もし、私が本当の親でしたら……おそばにいて、何だってして差し上げたくなりますものを。」

 「清さんは本当に俺を助けてくれたよな。馬鹿でできそこないで、実の親からは完全に見放されてんのにさ。飯もわざわざこっそり部屋まで運んでくれたり、それから遠足に行く時の小遣いとかさ、文房具買うのだって何だって全部清さんがやってくれたもんな。俺は本当に嬉しかったけど、俺のせいで、清さんが親父らから怒られるんじゃねえかって思う時もあったな。」

 清子は静かに首を振る。

 「旦那様からも奥様からも、タツキ様への接し方で一度だって注意をされたことはございませんですよ。」

 「へえ、そうなんだ。」

 しかしそれを当人に確認することはできないのだということに、タツキははっと気付いた。

 「勝手にですが、旦那様も奥様も、私がタツキ様のお世話をすることを心密かに期待なされてたのかもしれない、と思うふしもあるのですよ。」そう言ってふふふ、と笑い、「いつぞやなんぞ、タツキさんが試験の前の日かなにかで、お夜食をお部屋にお運びしたことがありましたでしょう。ちょうどその時お廊下で奥様とすれ違いましたのに、何も申されなかったんでございますよ。」

 「姉さんのだと思ってたんじゃあないの。」

 「それが。」再びくすくす笑って、「お紅茶とサンドウィッチと、ちゃあんと、二人分お盆に乗せてあったんでございますよ。さすがにお姉様は夜中にお二人分も召し上がれませんですよ。」

 タツキの頬が弛んだ。

 親たちは自分を憎んではいた。そう当人の口よりはっきり明言されたのだから、それはたしかである。しかしその程度はいかほどであったのだろう。少なくとも殺したいというまでではなかった。更には自分たちの金で飯を食わせるのも黙認はしていたとなれば、それは憎しみ、というカテゴリーからは外れるそれであったのかもしれないとタツキは初めて思った。


 そんな話をしている内にやがて駅に着いた。人気はまばらで、アオイが好奇の目にさらされるのではないかというタツキと清子の懸念も、すぐに雲散霧消した。しかしアオイにはレースの帽子を被せたまま、そのまま新幹線へと乗り窓際の席へと座らせた。タツキは再びその車窓から見えるあれこれを、起きたばかりのアオイに説明してやった。アオイは初めて見る海にあんぐりと口を開け、スケッチブックの一ページを青で塗りたくった。それから山も家々も、何もかもアオイには酷く珍しく、スケッチブックはすぐにいっぱいになった。

 「東京に着いたら、新しいの買ってやるから。」

 アオイはレース越しに不思議そうにタツキを見上げた。それが済むと三人で昼飯となる弁当を食し、それで腹がくちくなるとアオイは再び眠気を催して清子の膝に頭を乗せながらくうくう寝息を立てて寝てしまった。

 「実は私も、東京は十年ぶりですよ。」清子は微笑みながら言った。

 「へえ。十年前何しにきたの。」

 「奥様が東京まで劇を観に行かれるというので、お供したことがございましたです。あの時は旦那様がお仕事でお忙しく、どうにも行かれなかったのでございます。」

 「そうなんだ。」十年前であれば自分も実家にいたはずなのであるが、そんなことは一向に思い出せなかった。

 「もう、舞台がこう、きらびやかでですねえ。そして帰りに、奥様とホテルでお食事をさせて頂いて。……楽しかったですねえ。」

 「清さん劇好きなんなら、これから幾らだって観たらいいよ。」

 「いえいえ。」清子は慌てて手を振る。「そういうんじゃあありませんです。」

 清子はいわゆる娯楽に興味がないのかもしれない、とタツキは思った。それよりも自分やアオイのような子供が大好きで、その成長のために生きていきたいと、そう本心から思える人間なのだ。

 清子とはその東京での思い出話をし、それからタツキが住んでいる町の話をした。特に銭湯の話に清子は興味津々であった。

 やがて東京に到着したものの、ぐっすり眠っているアオイを起こすのも忍びなく、タツキたちは駅前からタクシーに乗り、そして弁護士から貰った別荘までの地図と住所の書かれた紙を頼りに、初めて父の持つ別荘とやらの前に降り立った。

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