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STIGMATA  作者: maria
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 タツキは料理ができるまで、広すぎる邸内を歩いた。

 今まで、一時だって安寧の思いを抱きながら行き来することのできなかった、我が家。我が家という言葉を使うのだって違和感はなはだしい。いつも父の眼に触れぬよう、母の眼に触れぬよう、そればかりを考えてここで暮らしてきた。一日でも早くここを出て行くのだと、そればかりを考えつつ。

 しかしその家は今、静謐にタツキを包み込んでいた。父の書斎、両親の寝室、姉の勉強部屋、自分の部屋――は、無かった。否部屋は存在していたが、自身の見たこともないデスクと本棚、高級そうなオーディオ機器とが置いてあった。おそらくは姉の夫のものなのであろう。しかしタツキはそれに対して何も感じなかった。自分という存在が消されたことは、当然のことと思われた。

 そして防音室。タツキはそっとその扉を開いた。そこに一瞬、自分の幼い姿が見えたような気がする。この家で最も自分が長くい続けた大きなグランドピアノのある、部屋。グランドピアノは当たり前のように防音室の中心に鎮座していた。まるで時間の経過なんぞまるでなかったかのように。タツキはそっとその鍵盤蓋に触れてみる。そこに映った自分の姿が、長髪であるのを見てタツキはくすくすと笑った。グランドピアノに意識があったならば、きっと本当にかつての主であるかと訝るであろう。そのぐらい、自分の容貌は激変していた。

 「タツキだよ。」

 タツキは思わずそう口にした。

 「ただいま。……久しぶり。元気だった?」

 タツキはそっと鍵盤蓋を開け、敷布を外した。しっとりとした象牙の鍵盤が顔を表す。五年ぶりに邂逅したその姿は、溜め息を吐く程に美しかった。以前は当たり前に弾いていたが、今ならこれが幾ら程の価値を持つのかわかる。おそらく数百万はくだらないであろう。母は地元の楽器店で一番美しく、それだけ値段の高いピアノを買い入れたのである。一流の調律師に通わせメンテナンスを行ってきたピアノは、しかし、おそらくは自分がここを出てからと言うもの、誰にも奏でられることはなかったのではないかとタツキは思った。

 タツキはゆっくりと椅子を引き、グランドピアノの前に坐った。温かく挿し込む陽光の中に微粒の埃が舞う。

 タツキは鍵盤にそっと指を添える。指はほとんど無意識のまま、かつて必死に練習した『月光』を弾き出した。ギターばかりに専念して数年経つが、記憶の通りに音の出たことにタツキは胸が躍った。美麗なメロディがタツキを包み込む。何の憎しみも無い、悲しみも無い、というよりもそれらを全て乗り越えた音が、昔とは違った世界を創り出していく。タツキは音に溺れた。その生み出す世界に、没頭した。

 曲が終わると、突如拍手が鳴った。気づけば、扉に清子がアオイを従え、満面の笑みを讃えながら立っていたのである。

「素晴らしい。やっぱりタツキさんのピアノは素晴らしい。ああ、お懐かしゅうございました。」

「ピアノなんて……何年かぶりかに弾いたから、とても人に聴かせられるモンじゃねえな。」

「そんなことありませんですよ。タツキさんがコンクールだなんだっていって頑張っていらっしゃった時のことが、こう、まざまざと思い出されて……。胸がいっぱいに……。」清子はそう言って瞼を拭う。「あの時、私がもっと奥様旦那様にお願い申し上げていれば、ウィーンにも行けたかもしれませんですのに。」

 清子が深々と溜め息を吐いたので、タツキは慌てて「俺は別にウィーンなんて行きたかなかったし。」と言った。

 たしか全国のコンクールで入賞した時、入賞者はウィーンへ招待するという副賞があったのだが、タツキは父母の了解が得られず、参加できなかったのである。その時タツキはそうだろうなという、納得というよりは諦観でもってそれを即座に受け止めた。自分は医師になれぬ余計者なのだから、そんな、外国へ音楽を学びに行くなど許されるわけがないと、そう早々に納得したのである。よってタツキはそんなことはすっかり忘れていたのであるが。

 「でも、もうタツキさん自身のお力でウィーンでもどこでも、行けるようになりますからね。その時には私がしっかりお留守番を仰せつかりますからね。御安心くださいまし。」

 「別にウィーンに行く予定なんて、ないよ。」

 「あ、でも、もし、その時飛行機の座席に余裕がございましたら、是非アオイ様を連れていって下さいましな。せっかく病院を出られたのですから、アオイ様にはいろんな景色を見て頂きたいんですよ。こう、ウィーンの素敵な街並みをですねえ……。」清子はもうすっかり自分の妄想に酔いしれているようであったが、それを否定するのも忍びなかった。

 「わ、わかった。アオイはツアーに連れてってやるよ。」

 アオイは不思議そうにタツキを見上げる。

 「その……。今は国内だけだからそんな面白ぇもんじゃあねえけどさ。」

 「まあ、良かったですわねえ。アオイさん、音楽旅行ですよ。粋なもんです。」とそこまで言って、「あら、厭だ! こんなこと言いに来たわけではございませんよ。ご飯ができましたのでタツキさんを呼びに参ったんです。今日はアオイさんにお手伝いして頂いて、特別美味しく出来上がりましたからね。お豆の煮物でございますよ。さあさ、ピアノはお片付けして、リビングにいらして下さいね。」清子はアオイの手を引き、部屋を出て行った。

 タツキはもう一度ピアノの鍵盤を見詰めた。そして確かにここで自分は音楽の力を育み、それが今につながっていることをはっきりと思い起こした。自分という存在が点で存在するのではなく、過去から延々とつながった、その上に存在していることを、タツキは忘れずにいようと思った。きっとそれがこれから新しい音楽を創っていく上で重要になると、そういう確信が芽生えたのである。

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