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弁護士が帰ると、タツキは早速引っ越しの準備に励んだ。とはいえ、家にあるのは清子の荷物だけで、服と食器と、そんなものばかりである。玄関には二つのバッグが置かれただけで、終わった、かに見えた。
タツキがお茶を飲もうと台所に立ち寄ると、食器棚の前に小さく蹲るようにして清子が何やら食器を取り出していた。
「え、……それ、持ってくのかよ。」
タツキは顔を顰めて、清子が丁寧に新聞紙に包み込んだ湯呑を指さした。
「当然ですよ。タツキさんが、修学旅行で作ってきてくれたものですからね。」
「ああ、こんなのまで!」タツキは清子の古びた鞄の中に丁寧に仕舞われたエプロンを取り出した。案の定、「イワムラタツキ」と辛うじて読める刺繍に、その隣には車を模した不格好な刺繍が施されている。「勘弁してよ。」
「勘弁なんて致しませんよ。これは小学五年生の時に、タツキさんが作ってくれたものじゃあありませんか。」
「ちょっと待てよ。湯呑はともかく、これは清さんにあげた覚えはないぞ。これ出して通信簿2付けられたんだからさあ!」
「当然ですよ、タツキさんのお部屋のごみ箱から頂戴致したものですから。せっかくお作りになったものを捨ててしまうなんて、勿体無い。」
「あーあ。」
するとそこにアオイがやって来て、珍し気に清子の荷物を覗き込んだ。
「アオイさん、楽しみですねえ。これから東京という所に出て、タツキさんと清と一緒に暮らしていくんですよ。わかりますね。」
アオイは真顔で立ち竦んだ。手にはノートとクレヨンを抱えていた。
「どんな暮らしになるでしょうかねえ。タツキさんと、清と暮らすんですよ。そちらに書いてみましょうか。アオイさんは字が上手ですものね。」引っ越しの準備も整い、清子は面白そうにアオイをリビングに促し、椅子に座らせた。ゆっくりとノートを開くのを、どこか緊張した風情でタツキは見守る。
「さあさ、一緒に暮らすのはタツキさんですよ。タツキ、って書いてみましょうか。タツキさんは何色が好きでしょうかね。お小さい頃は何でも青色がお好きでしたよ。ピアノのレッスンバッグも、筆箱も、下敷きも全部青でしたから。」
「よーく覚えてるなあ。」呆れたように言う。
アオイはそっと青のクレヨンを取り出し、ゆっくりと画用紙に書き出した。
タツキは息を呑んでその様を見守った。
た・つ
その次が続かない。おそらくしょっちゅう引っ繰り返ってばかりいる字を書くアオイは、「き」の方向がまだわからないのだ。
「おお! 凄ぇ凄ぇ!」タツキはしかしすぐさまアオイを揺さ振った。「た・つって書けんのか。前々から俺も「き」は余分だって思ってたんだよなあ。だからさ、これからアオイが俺のことを心ん中で呼ぶ字にはさ、『たつ』って呼んでくれよ。まあ、ニックネームみてえなもんだ。」
アオイは肯いたのか単に下を向いただけなのか、曖昧に俯いた。
「じゃあ、今度はきよ、って書いてくれよ。ほら、きよ。きの字はな、左っかわに膨らますの。こうやって、ぐるって。」
もう既にアオイは何だか疲れている。元々人馴れしていないのだ。こんなに四六時中誰かと一緒に過ごす経験など、初めてなのであった。でもアオイは再び強いられるがままに、ノートの開いた所に「き・よ」と書いた。今度はタツキの指示があったので「き」の字は書けたものの、よの字がひっくり返ってしまった。
「おお、独創的だな! 音楽もオリジナリティーが大事なんだ。誰かの二番煎じじゃあ、どうしたって本家を超えられねえからな。」
「さあさ、ではそろそろお昼ご飯作りましょうか。アオイさん、お手伝いして貰えますか?」
アオイはゆっくり肯き、クレヨンを置いて清子の後ろをついて台所へといった。
タツキはぼんやりとアオイのテーブルに置いていったクレヨンと画用紙を眺める。言葉を発せない代わりに、アオイの心を代弁するクレヨンと、画用紙。タツキは不意にそれをめくってみた。
あ・お・い
という字が幾つも踊っていた。
「あ」と「お」は随分難しかったのであろう。何度も引っ繰り返ってようやく、2、3ページ目にちゃんと書けたのが出てきた。ふ、とタツキは笑みを漏らす。
ま・ま
次のページを繰ると、唐突にその文字が出てきた。それが意味を持つものだとはわからなかった。ただの「ま」の練習かと思った。しかし次のページには「ぱぱ」とあった。タツキは不意に胸を突かれた。
アオイはどういう思いでこの字を練習したのだろう。一度も会いに来ない両親を思って書いたのだろうか。それとも誰かに教えられて、特に意識もせず書いたのだろうか。後者であることをタツキは願った。アオイが年齢不相応に苦しんでいることを、想像するのも辛かった。
「まあ、アオイさん上手ですね、豆の殻剥きはなかなか面倒ですのに、こんなに器用にされて。」清子が盛んに誉めそやす声が聞こえる。しかしタツキの視線は「まま」と「ぱぱ」の文字から微動だにすることはできなかった。
「アオイさんは字も上手ですし、お料理も上手。今度は、タツキさんにピアノ教わってみます? きっとすぐにお上手に弾けるようになりますよ。」
アオイは何も答えなかったのだろう、沈黙が訪れた。
「アオイ。」タツキはそう言って台所を覗き込んだ。アオイが手にマメの筋を絡ませながら、小首を傾げた。
「俺がアオイのパパの代わりになるかんな。ママになんのはちっと難しいけど、俺はアオイのことが大好きな、パパだ。わかった?」
アオイは驚いたように目を見開いて、小さく肯く。
「まあ、良かったですわねえ。アオイさんのパパは、本当のパパは遠くへ行ってしまいましたが……」そこまで言って、清子はうっと口許を覆った。そしていけない、いけないと慌てて、「代わりのお父様はこれからずっと一緒に暮らしていけますからね。代わりのお父様は音楽の才能がおありなんですよ。これからピアノも、ギターも聴かせて下さいますよ。」
「アオイちゃんは音楽が好き?」
「お歌のテレビをよくご覧になってましたよね。ほら、……何でしたっけ。基督様の曲。ええと、……いやですわ、私はどうにも横文字に弱くって……。」
アオイは手を布巾で拭って、リビングに戻って来る。画用紙を開け、そこに黄色のクレヨンを取ってたどたどしく「あ・め・い・し・く・れ・す」と書いた。
暫くタツキは考え込んで、「基督様」との関連から、「アメイジンググレイス」だとわかった。「アメイジンググレイス! へえ、アオイちゃんは讃美歌が好きなの。」タツキは腕組みし感心し切りといったように言う。
「アオイさんはちゃあんと、音楽家のパパの血を弾いておいでですのねえ。」
そんなことあるか、本物の父親はエリート医師だ、と思いつつタツキは清子を見た。「何でしょうかねえ、タツキさんとアオイさんは何だか早速家族のような気が致しますよ。とっても昨今お会いしたなんて、思われませんよ。」清子は豆をむしり、むしり、言う。
「ご立派になったタツキさんに再会できて、そして今度はアオイさんの成長を見られる。こんなに嬉しいことはありませんですよ。」
バンドマンが立派なものか、とタツキは顔を顰める。
「私はね、毎日毎日タツキさん、アオイさんにお会いしたいとそればかりを考えて暮らしておりましたんですよ。それがこんな、……形ではありますが、……叶って。罰当たりとは思いつつ、でも、どこかやっぱり嬉しくて嬉しくて。夢にまで見たタツキさんとアオイさんと毎日一緒に暮らしていけるなんて、神様が最後に大きな大きなプレゼントしてくれたとしか思われませんですよ。」
「んな大げさな。」
「大げさでもなんでもございません。私はタツキさんがお小さい頃から、タツキさんが音楽家として大成するまで見届けたいとそればかりを思っておりましたですよ。アオイさんも。」にっこりと微笑んでアオイを見つめる。「アオイさんはご飯をちゃあんと、召し上がっただろうか、今頃何をしてお暮しだろうかと、そんなことばかり毎日考えておりましたですよ。これからはそんな心配もなく、一緒に暮らせるんですもの。こんな幸せなことはございません。……タツキさん、本当に、本当に、ありがとうございます。清は一生このご恩を忘れませんですよ。」




