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STIGMATA  作者: maria
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30

 三人の到着とほとんど同時に弁護士はやって来た。一瞬アオイの顔を見るなり、全てを解したとばかりに弁護士は安堵の笑みを溢した。

 アオイはさすがに長時間の移動が疲れたらしく、家に着くなり眠たげで、清子が来客用の布団を敷いてやるとすぐさま寝てしまった。そうして弁護士とタツキは応接間に入り、早速山のような書類を前に、話し合いを始めた。

 「まずはご相続の件ですね。お父様、お母様の遺産はタツキさんに。お姉様、その旦那様の遺産はアオイさんに入ることとなります。お金だけではございません。この御邸宅もそうですし、別荘も。」

 「別荘?」タツキは頓狂な声を出した。

 「ご存知ありませんか。……軽井沢に一軒、東京に一軒それぞれございますが。」

 「知らねえ。」そう不機嫌そうに言い放ち、それからはっとなってタツキは弁護士に迫った。「……あ、でもその東京って、どの辺? 住める?」

 「S区でございますね。ごく最近もお父様が都内で行われる医学関係の学会に参加される時にご利用になられておりまして、軽井沢の方よりもだいぶご利用になられる頻度は高かったようです。無論、ハウスキーパーを雇っておりますので、いつでもご利用できます。」

 「否、利用じゃなくってさ、清とアオイと三人で住めないかな、そこ。」

 弁護士は一瞬間を置いて、「勿論住めます。」と答えた。

 「マジか! やった! じゃ、そうしよう! いいよな、清さん。」

 清子はお茶を慌てて持って来る。

 「え、ええ。でも、そしたらこちらは……。」

 「……ううん、たまに来て掃除するか……」

 「タツキさん、あなたが御相続される金額はこちらになってございます。」と言って弁護士は新たな書類を見せた。タツキは眉根を寄せて、その数字を数えだす。想像を超える金額であった。「こればかりではございません。お父様は病院の経営者でもございましたので、病院での利益と、それに加え不動産も相当数お持ちでございますので、私的にご利用になられる別荘以外にもマンションが三棟程。」

 タツキは唖然として弁護士の顔を見遣った。

 「勿論これらはお父様だけで購入されたものではなく、おじいさま、更にそのまたひいおじいさまのご尽力あってのものでございますが。」

 「……だから家、家、ってうるさく言ってたんか……。」

 「岩村家と言いますのは、タツキさんもご存知とは思いますが、江戸時代から続く名家です。代々名高い医師として、それから昨今では政治にも携わられ、地域の尊崇の念を一心に浴びながら続いてこられたのです。お父様が度々仰られていたのは、地域のため、国のためというオブリス・ノブリージュの精神。自ら基金なども設立され、自分の病院に長く入院をする子どもなんぞに寄付などもしておられました。そのために不動産にも手を染めたのであって、決して私腹を肥やすためではございません。」

 タツキは黙した。それは、いい。でも他人をそこまで気遣うのに、どうして自分やアオイはそこから排除されただろう。アオイに関して言えば、なぜ遠ざけて、しかも存在しないような扱いとしたのであろう。

 「あのさ、俺は親父たちが作った金を貪って生きていこうとは思わないよ。家や別荘? だって売り払って金にしちまおうなんて思わないし。でも、正直俺にはこれから三人で暮らしていくための家が必要なんだ。だから、その東京の別荘っていうのに俺らが住むってのはあんたから見てどう思う? 俺が親父からは憎まれ、あげくの果てには存在すら忘れられてた子どもだったってことも考慮して。」

 「いずれかに住んで頂くのが、手続きとしては最もスムーズに行く方法かと思います。……こちらのお宅を空き家にするのでしたら、お父様が懇意になされていたハウスキーパーの会社もありますので、お願いすればすぐにやってくださるでしょう。なかなかお庭なども立派な、手入れの必要な樹々が多いですが、それも含めて。」

 「じゃあ、そうしよう。いいよな、清さん。」

 清子は慌てながらも、はいはいと何度も肯いた。

「もしこれからご意向が変わりましたら、いつでも承りますので。……ではこちらに印鑑を。遺産のご相続にかかわる書類でございます。」

「はい。」タツキは指示された通りに、次々と判を押していく。

「……タツキ様、大丈夫でしょうか。本当に。」おそるおそるといったように、清子は覗き込む。

「そんなのわかんないよ。でも人生ってそういうもんだろう? 完全大丈夫だっていう確証があって進めるなんて、ないよ。」

「それは、そうでございますが……。」

清子はタツキの様子をじっと見守る。

 「これから清さんにはまた世話になるけどさ、宜しく頼むよ。」

 「……それは、もちろんでございます。」

 「清子さんにはお父様より、百歳のお誕生日までのお給金が毎月振り込まれることとなっております。」弁護士は淡々と言った。

 「ひゃ、百歳!」清子は仰け反った。

 「……そこまで働かすつもりだったんか!」

 「否、とんでもございません。お仕事ができなくなっても、生活に困ることがないよう、それだけを心配されて手続きを取られたのです。長年プライベートもなく、朝から晩まで住み込みで働いて下さったのですから。……お父様は、当初はお母様の出産と、育児のお手伝いのおつもりだけで清子さんをお雇いになったのですが、サクラさんの後タツキさんが生まれ、それからお母様もお仕事が非常に多忙になられ、家事全般とサクラさん、タツキさんの送り迎えやら学校行事への参加やら、何から何までやって頂いたことに非常な感謝の念を覚えておいででした。それから、アオイさんのお世話も――。」

 清子ははっとなって弁護士の顔を見守った。

 「シュウジ様、ユリコ様は、清子さんにアオイさんのことをお任せ出来て本当に助かっていると仰っておりました。……もちろん、入院治療と称して産まれてから何年も家にも帰さず、会いにも行かないというのは、非難されることかもしれません。でもだからといって、完全に蔑ろにしていた訳では無いのです。最高級の個室を何年間も借り上げ、看護師に加え保育士も雇っておりました。」

 「じゃあ、何で喋れねえんだよ。」タツキは低い声で唸るように言った。「そんな金だけでな、人が普通に育っちゃ訳ねえよ。」

 「……申し訳ございません、言葉が過ぎました。……とかく、タツキさんの今のご希望としては、東京の別荘にお住まいになられ、とりあえず本宅と軽井沢の別荘に関してはこのままハウスキーパーにお願いすると。」

 「……まあ、そう、ですね。」

 「あとは病院の方ですが……」

 「……俺は頭が悪いんだから、病院なんて継げねえよ。」

 「何もなさらなくて結構です。でも、収入は入って参ります。創立者岩村家の人間という理由で、それは避けることはできません。そこだけはご承知を。もし我慢がならないというのでしたら寄付という手もございますが。その際にはまた手続きをして頂くことになります。」

 「面倒だな、あんたに任せるよ。どうせ俺にはわからないんだし。あんた、それだけ色々知ってるってことはさ、親父の気持ちもようく、わかってるんだろう?」

 「長くお付き合いをさせて頂いておりました。」

 「じゃあ、その通りにやってくれよ。俺は正直……、金のことよりもさ、住む家があって、そこでいい曲作って、それをあっちこっちライブして回ってっていうことの方が遥かに重要なんだ。」

 「承知しました。」

 「タツキさん、」清子が緊張した面持ちで言った。

 「何。」

 「アオイ様をどうぞ、よろしくお願いします。もちろん、私も精一杯アオイ様のため、タツキ様のため、これからも尽くして参りますが。」そう言う清子の顔は強張っていた。軽々しく肯ぜられない何かがあった。しかし清子が何を言おうとしているのか、タツキには解る気がした。


 昨夜アオイが寝てからホテルで清子が語ったのは、アオイの特殊な生育環境と共に、どうしたって奇異の目を向けられるであろう顔の大きな痣についてであった。

 あれでも、一応治療はしたらしい。レーザーによる手術やら何やら。最先端の医療とやらを用いて。しかし少々薄れたものの、あれ以上今の段階では治癒できないというのが医師の見解であった。となれば、あの状態で暫く、あるいは生涯、アオイは生きて行くこととなる。病院から出たことのないアオイにはそういう経験はまだ皆無であるが、これから人生を歩んでいくに当たって、痣を理由にきっと心無い対応に苦しむことになろうことはあまりにも明白であった。それはどうしたって第三者が完全に庇えるものではない。自分の痣を苦に、いつか心を病んでしまうのではないか。家に籠りきりになってしまうのではないか。今でさえ心の傷で言葉が出ないのである。清子の苦悩は深かった。

 「それはそうかもしれないけど……。」さすがにそれらの将来像を否定することはできなかった。「でも一番身近な人間が大切に思ってくれれば、それで生きていける力は湧いてくる。……ちょうどさ、清さんが家の中で孤立している俺の音楽の才能を認めてくれたみてえにさ。だから俺は目標を喪わずに生きてこれたんだ。今日まで。」

 清子は俯いた。

 「たしかにさ、俺をバンドに、メタルに引き込んでくれた音楽での恩人はいる。その人が今の仕事世話してくれて、音楽のイロハも全部教えてくれた。でもさ、俺が一人の人間として生きていくに当たって、ちゃんと死なずに生きて行こうって、悪いことしちゃダメだなって、そういう指針、みたいなのになってるのは清さんなんだ。清さんが、親から見捨てられても面倒見てくれて、褒めてくれて、たまには小遣いもくれてさ、そういうのがあったからなんだ。こんなことになっちまったから突然帰って来たけど、音楽でちゃんと食っていけるようになったら、俺は清さんには連絡しようと思ってたよ。マジで。清さんの好きな寿司ぐれえご馳走してやって、ありがとうって言うつもりだった。……まあ、それは今も諦めてはねえけどさ。……だからアオイにもそうやって俺は接していきたい。お前がいちばん可愛いよ、賢いよ、素敵だよって。嘘っぱち言うつもりはないけどさ、でも本気でアオイは可愛いって思うよ。ほら、姉さんの子供の頃にそっくりじゃない? あれ、にっこりしたら絶対姉さんに似てるって。俺は医者じゃないから、アオイの痣を治してあげることはできないし、しかも、きっと相当金かけてずっとこうやって長いこと入院しててもどうにもならないってことは、どんな医者にも無理なんだろう。アオイはきっと痣を持ったまま生きていくしかないんだろう。でも、俺はアオイのことをちゃんとした一個の人間として認めて、家族として愛してやりたいんだ。家族から排除されることがどんなに辛いかってことは、結構わかってる方だと思うからさ。」悪戯っぽく笑んだのに、清子は相変わらず俯いている。

 「私は、私は、……」そう言って上げた顔はやはり、泣いていた。「タツキ様がお可哀想でお世話をしたのではありません。タツキ様が本当に可愛かったから。……子どものない私が言うのもなんですけれど、いつしか本当のお子のように思って、……ですから、お父様やお母様に冷たく扱われたから、私がそこを代わりとして引き受けたっていうのではなく、本当にタツキ様が……」

 「わかってるって。」タツキは慌てて手を振った。「もうなんか、恥ずかしいじゃねえか。」

 清子は俯いた。「……タツキ様がご家庭でお父様からもお母様からも愛されてお育ちになったとしても、私はタツキ様をお世話したいとそう思ったに相違ないのでございます。」

 「……多分、そうだろうなって思ってたよ。」

 清子はゆっくりと破顔した

 「だからさ、今度はそれを俺がアオイに向ける番なのかもしれないって思うんだよ。」

 「……そうでございますか。」

 「だから、応援して。清さんに頼ることもいっぱいあると思うけど。俺、仕事は夜だし、その後バンド練習とかで朝帰って来るなんてことも多いけどさ。その時は清さんに面倒見てもらうしかないんだけど。」

 「うふふふふ、全ては覚悟の上でございますよ。タツキ様が家でピアノを弾いてらした頃から、タツキ様には音楽の才能があるから、将来は忙しく世界中を飛んで回るのだと私、申し上げてたじゃあありませんか。」

 タツキはあれは本気だったのかと、ぎょっとして清子を振り返った。そして清子は一層笑い声を高くした。

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