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STIGMATA  作者: maria
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3

中学に入る直前、最早受験は不可能であり、地元の公立中学という、一族にあるまじき選択肢が現実化される頃、さすがにタツキも毎日のように罵倒され、母のいうよう、自分は人間として大きな欠陥を有しているのだと確信し始めていた。それを証明してみようと、母によって無理やり入れられた塾に通ってもみたのである。しかし座っていると、頭の中にはメロディーが流れ出す。どんな風に弾くべきか、そのバリエーションが次々に思い浮かんでくる。このままではいけない、いけないとタツキは耳を塞いで教師の話を聞こうとする。しかしそんなことはできやしない。ますます頭の中には最高の音楽が流れ出す。こうしている内に、教師の話は終わってしまうのである。あるいは、与えられた参考書を読み、問題集を解いてみる。今度は話を聞かずとも勉強に入ることができる。しかし今度は、全く訳が分からないのである。一体この問題は自分に何を求めているのか、どうしてほしいのか。そこには表情も感情もない。いうなれば、ただのインクの染みである。それ以上でも以下でもない。タツキは呆れた。自分に呆れ、果てた。たしかに――、タツキは自分の脳には欠陥があるのだということを自覚したのである。

白紙同然のテスト用紙に怒った父は、密かにDNA検査さえも実施した。それによって、実子である事実が数社から挙って突きつけられ、暫くはやけにもなった。

やはりタツキには音楽しかなかった。中学入学も間近になる頃、彼の興味はピアノのみならず、ピアノ講師の家にあったバイオリンや、叔父が昔買ったとかで放置されていたギターにも手が伸びていた。その腕前は言うまでも無い。ピアノ講師が瞠目し、医師の家系でなければと苦悶するほどの才を発揮するに至ったのである。

失敗した、と挫折を知らぬ母親は自分に、我が子に、激昂した。遂に父同様、やけになった母親は家庭教師も塾も全て排除した。それはタツキに安堵を齎した。しかし何と、ピアノまでも辞めさせられた。それはタツキにとってこの上ない絶望を齎した。しかしタツキの才を惜しんだピアノ講師は、無料で、かつ親には内密にタツキの指導をすることを約したのであった。

「いつでもおいで。君には才能があるのだから。」白髪の混じったピアニストはそう言ってタツキに微笑みかける。

タツキはしかし彼が高額の給与を得て大学でピアノを教え、そしてステージで演じることを知っていた。とてもではないが、無料で今後一切合切の面倒を見ろとは言えなかった。

「……いつか、お金は払います。大人になったら。」

「いいんだよ。」ピアニストはそっと鍵盤の上を布巾で撫でた。「正直ね、君のお父さんお母さんからはから今まで過分なお金を貰い過ぎていたんだ。お姉さんの分も含めてね。」

タツキは講師に支払っている具体的な金額を知らない。ただ、今の自分を生かしているのは父母の収入なのだということが、まざまざと思い起こされた。

「そんなことよりもね、君がいつか音楽を通じて社会に輝きを齎してくれることが楽しみでならないんだ。」

「……そんな風にはなれないと、思います。」自分は父母の言うよう欠陥人間で、クズで阿呆なのである。

「ふふ。」ピアニストは含み笑いを漏らし、「君の音はそう言ってはいない。今の曲だって……」思い起こしてうっとりと目を閉じた。「これから広い世界に出て行くことを、何よりも希求する音だった。君が見ている世界は美しい。それは希望なのかもしれないが、うち砕かれることのない強さを持っている。」

タツキは頭を捻った。この優れたピアノ講師は、文学的なのか何なのかよくわからない言い回しを度々用いるのである。

「……強い、んですね。」最後だけがどうにか理解できた。

「ああ、そうだ。君は強い。音楽の可能性を十二分に信じているからだろうな。それだけの魅力を君自身が確信しているからだろうな。」

「……はあ。」さすがにわからなかった。でも、おそらく褒めてくれてはいるのだろう。タツキは「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。」と深々と頭を下げ、そして部屋を辞した。自分には本当に強さがあるのだろうか。到底信じられるものではなかった。姉は、賢い。父も母も、親族の誰も彼もが、当たり前に医師となれるぐらいの知能を有している。しかし自分だけが、そうではない。どうして――、タツキは唇を噛み締めながら足早に自宅へと向かった。家が病院なんぞでなければ。普通の、クラスメイトの親たちのような、そういう人たちであったら良かったのに。もしかすると自分の本当の親がそうして暮らしているのではないか。そんな妄想を膨らませながら、タツキは帰途に着いた。


塾も習い事も全て排してからというものの、一層父母はタツキの存在を完全になきものとした。とりわけ母は、学力という点においてかつての自分と匹敵し得る姉だけに、全ての労力と金銭を注ぎ込んだ。

タツキには姉と口を利くことを禁じた。「お前とは住む世界が違うのだから。」と言われたが、同じ家に住んでいるのにどういうことなのだろうと、大人になると人はわけのわからぬことを言い出すものだと、タツキはピアノ講師の顔も同時に思い浮かべながらとりあえず首肯した。

タツキは解放された。さすがに顔も見たくないと食事を共にすることを禁じられたのには少々の困惑を覚えたが、見るに見かねた清子がこっそりタツキに弁当だの夕飯だの、時折は小遣いさえも呈してくれたので助かった。しかしどうやら暗に父母も清子にそれを期待していたような節もある。世間体、それだけはとりあえず死守しておきたいようであった。それで遂にタツキは、本来親族の誰もが行かせようなどとは考えていなかった、地元の公立中学に進学することとなった。

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