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清子の後ろにつく形で、タツキは既に人気のいなくなった院内を進んで行く。外来の時間は終わっているのであろう。清掃をしている女性が二人の姿を見るなり、小さく会釈をした。そこを過ぎ、エレベーターを上がる。清子は迷いなく七階を押し、ぐんぐん上昇していった。それと同時にタツキの鼓動も高まる。これは何であろう。それに類する言葉を求めれば、緊張であった。そして期待と、恐怖であった。タツキは自分の過去を掘り起こされるような思いを感じていた。まだ見ぬアオイを自分の過去の姿に重ね合わせていた。
七階に到着する。目の前にはナースステーションがあった。その中の一人が、清子を見て小さく頭を下げた。
「アオイ様の所に……。」清子は呟くように言う。
「このたびは大変でございました。」事情を知っているのであろう。看護師は立ち上がり、深々と頭を下げた。
清子はそれに更に会釈で返すと、奥へと廊下を歩んで行った。タツキの心臓は高鳴っていく。――一体どんな子なのだろう。痣を持つがために家族から排除された子。自分は仕方がない。勉学の才がなく、一心に励むことをしなかったのであるから、自業自得めいた部分がある。ただし、顔に生まれついての痣があるがために、排除され口も利けなくなったというのはどう考えてもあるまじきことにしか思えなかった。
清子の歩みが遅くなる。ふとタツキは顔を上げ、目の前の病室の入口に「イワムラアオイ様」と書かれているのを見て、息を呑んだ。その存在がいよいよ目の前の迫ってきたように感じたのである。
清子はゆっくりとドアをノックする。
「アオイ様。清子です。入りますね。」
清子はそう優しく歌うように言うと、がらりと引き戸を開いた。
床に足を広げてぬいぐるみを抱きながらしゃがんでいたのは、小さな女の子だった。タツキは不躾であるとは重々承知しつつ、その子の顔ににわかに釘づけになった。その顔がおおよそ半分近く、右目を覆い顎にも達する形で、黒い染み、のようなもので覆われていたから。それは見る者に違和感を覚えさせるには十分に過ぎる顔つきだった。無論タツキは今までこんな子に、人間に、会ったことさえない。少なくとも街中で見かけるような顔ではなかった。しかし目鼻立ちは確かに、よく美人だと褒められていた姉に似ていた。幼い頃、姉はこんな顔をしていたっけ、と思わされる顔立ちなのである。それだけにこの黒い痣の存在感は凄まじかった。
アオイはぼんやりとタツキを見上げた。そこには笑みは無論、悲しみも恥ずかしさも何も無かった。ただ、人形のように完全なる無表情でもってタツキを見ていた。
その無感情さに知らず、タツキはごくりと生唾を飲んだ。
「アオイ様。お元気でしたか。」清子はしゃがみ込んで髪を撫でる。アオイは傍から見てもそうとはっきりわかる程に、体を強張らせた。タツキもその隣に座った。
「こちらはですね、アオイ様のお母様の弟さん、タツキ様でございます。アオイ様に会いに来てくれたんですよ。」
アオイはちらとタツキを見上げ、今度は瞼を伏せた。相変わらず全身を強張らせたまま。タツキはアオイに手を伸ばそうとして、できなかった。自分がアオイを一層怖がらせ、体を強張らせるであろうことは火を見るよりも明らかであったから。
タツキはアオイを凝視したまま、「……初めまして。アオイちゃん。」とできるだけ優しく声を掛けてみた。アオイはガラス玉のような、感情の無い瞳をちら、とタツキに向けた。
無論タツキは子どもについて詳しい訳ではないが、それでもこんな何を考えているのだかわからない、不思議な目をした子供がいるのだろうかと訝った。そしてそれはやがて一つの答えを導き出す。
――アオイは誰に愛されることもなく、ほとんど一人でここに閉じ込められ、人としておそらくは最も大切な時期を今日のこの日まで無為に過ごしてしまった。それで人としての感情を喪失してしまったのではないか。自分は、まだ、幼少時代においては親の期待も大きく、愛に包まれて育った。だから自分は人と接するのに恐れを抱いたことはなし、コミュニケーションに困難を覚えたこともない。でもアオイは――、タツキは生唾を呑み込む。
「俺はタツキ。」そこまで言うと、今まで心の奥底に凝っていた思いが一気に言葉となった。「これからは、俺と一緒に暮らしていくんだよ。」
清子は慌てて振り返った。
「あのね、もう一人ぼっちじゃないんだ。もうそれはね、終わったから。アオイちゃんのパパとママから、言われてるんだ。とっても可愛い子だから、可愛がってねって。パパとママはちょっとね、暫く遠くに行ってしまうことになって、代わりに俺がね、アオイちゃんと一緒にいるように言われたんだ。」
アオイは大きすぎる目を更に大きく見開いた。
「お話は、もし、したくなったらするといいよ。俺のことは心の中で『タツキ』って呼んで。わかる? タ・ツ・キ。」
アオイは明らかに先程とは違った目でじっとタツキを見つめていた。通じている、その直感がタツキに歓喜を与えた。
「え、あの、……タツキさん?」清子は慌てふためきながらそう言った。
「ああ、そろそろ夕飯だよな。アオイちゃんはここで食べてるの? いつも。」
アオイは返事のつもりか二、三度瞬きをする。
「そうです、よ、ね。……ここまでお食事運んで頂いて……。」
「じゃあさ、三人でどっか行って食べようよ。」タツキは明るく言った。「アオイちゃんは何が好き?」
アオイはゆっくりと俯く。
「……そうそう、アオイさんはですね、字でお伝えするのが上手ですよ。」清子はそう言って立ち上がり、部屋の隅にある本棚から、一冊の小さなノートとクレヨンを持ってきた。
「アオイさん、好きな食べ物を教えてください。」
清子がそう言ってノートを開いてやる。アオイはそのままクレヨンを握らされた。アオイは小首を傾げてから、ノートに丁寧に「い・ち・こ」と書いた(「ち」の字は裏返っていた)。
「いちご、か。いちごだな。あれは、たしかに、旨い。」タツキはそう言って過剰に肯いてやると、「よっし、たしかここの一階に喫茶店みてえのがあったから、あそこに食いにいこう。アオイちゃん、いちごパフェ食いにいこう。」
タツキは有無を言わさずアオイを抱き上げた。拒絶はしなかったが体は強張っていて、タツキは気の毒なような気がしたが、もうここまで来たら戻れない。ただただ驚いている清子に「清さんも行こう。」と言うと、そのまま部屋を出て、エレベーターを使って階下に降りた。背に看護師の眼差しを感じながら。




