25
「今、お茶をお持ちします。」清子が見ていられぬとでもいうように、席を外す。
タツキは茫然と仏壇を見上げた。本当に、全員が全員、死んでしまったのだ。こんな唐突に。
死の直前、彼らは何を思ったであろう。ほんの少しでも自分のことを思い起こしてくれたのだろうか。否、そんなはずはない。これから行く旅行の楽しみを語り合っていたのだのに相違ない。いつも自分がのけ者にされていたじゃあないか。家族の団らんに、自分が入ることは許されなかった。そればかりか言葉を交わすことも、目を合わせることも、何もかも禁じられていた。
昔も気付けば両親と姉が数日家を空けることがあって、清子は申し訳なさそうに「ご旅行に行かれたようです」と告げ、代わりに一生懸命自分の好物を料理してくれた。それは嬉しかったが、どこか悲しく、寂しかった。
医学の道を進んでいけない、それが確信された日の父親の冷たい眼差しは忘れられない。「お前はなんのために生きているんだ。」そう父は言った。それは死ねということと同義であった。そう告げられたあの日、自分は学校から自宅の反対方向に二時間も歩いて橋の上にじっとしていたのである。しかし、どれだけ憎まれても死ねなかった。たしかあの日は、明日ピアノのレッスンがあるから、とそう唐突に思いなして夜中に帰宅したのである。清子だけが涙を流して心配してくれた。
父はこの血の繋がらぬ青年を愛したのだろうか。他人のこの青年を。それを母も、姉も、当然の如くに受容したのであろうか。沸々と沸き起こる疎外感とも言えぬ行き場のない哀しみ、怒りにタツキはいけないいけないと首を小さく振った。彼等を責めた所で何が変わる。何も変わりやしない。自分がこうして彼等を眺めていることさえも、彼等にとってはこの上なく屈辱的なことに相違ない。タツキは思わず並び立つ遺影から目を反らした。
そこに再び清子が戻って来る。差し出された湯呑を見て、タツキは思わず清子を見上げた。
「これ。」
「そうです。タツキさんの湯呑。」そう言って清子ははにかんだ。
タツキはその緑色した湯呑をそっと手に取った。これは、小学生の頃、修学旅行で陶芸の絵付けに行き作ったものであった。あの時、自分は父や母にそれを見せることができず、自然と清子に渡したのであった。たった一つ買った彼女へのお土産、饅頭と共に。清子は目を丸くして「まあ、まあ、どこぞの美術館に置いてある、名品のようじゃあありませんか。」と、明らかに下手糞な、それでも一応は一心に見本の花の絵を写した湯呑をまじまじと見つめ、強ち世辞とも言えぬ様子で言った。
「俺、絵画くのは苦手なんだよ。知ってる癖に。」
「まあまあ、だって、芸術的ですよ。この絵柄。これからタツキさんのお茶はこれに淹れましょう。」そう言って勝手に決めてしまったのである。早速二人で食べた土産の饅頭の味は、時折食卓に置かれる銘菓と比べてパサパサとしていたし、それ程特別な味だったとは思われない。それでも清子は「わざわざ、学校の旅行に行って買って来て下さるなんて、ありがたくってありがたくって。」と、これもまたやけに感嘆しながら、美味しい美味しいと言って食べてくれた。それが恥ずかしくてタツキはこんなことを言った。「そんな美味しくないじゃん。」否定してくれることを期待しながら。
「美味しいですよ、とっても美味しい。私はタツキさんがねえ、遠くへ行っても私のことを思い出して、買って来てくれたっていうのがありがたくってならないんですよ。だからそれを思うととてもとても、美味しいんですよ。」
タツキは嬉しかった。心の底がじんわりと温かくなるのを覚えた。
タツキはそんなことを思い起こしながら、目の前の湯呑を包み込むようにして持ち、茶を飲んだ。ほんのりと甘く、自分が時折コンビニで買うペットボトル入りのそれとは明らかに異なっていた。うちの味である。とてつもない懐かしさに思わず泣きそうにさえなった。
「タツキさん。」
清子は意を決したように、居住まいを糺すとタツキの前に正座をした。思わずタツキも姿勢を整える。
「あ、あのさ、暫くはこっちにいるよ。その、……一週間ぐらいは、ライブもないし。練習はメンバーに言えば何とかなるからさ。」
「……。」清子は黙した。
「弁護士さんがさ、何て言うの? 遺産の相続っていうの? そういうのがあるから、手続きをお願いしますって電話で言ってたし。きっと今日、明日には来てくれるんじゃない?」
清子は再び押し黙った。
「まあ、遺産とかって言っても俺には使う道もないし。清さんは血の繋がりはねえのかもしんねえけど、でも、俺にとっては家族同然っていうか。……本当のおばあちゃんみたいに思ってるから、遺産は清さんのものにしてくれていいし。」
「タツキさん。」一層清子の声は凛として響いた。
「はい。」タツキは驚きつつ、意を決したように答えた。
清子は深々と息を吐くと、「実は一つ、大切なことを、まだタツキさんにお伝えしていないんです。」と言った。「……それをお伝えして、いいですか。」
家族が全員他界し、更に何を秘めていたというのか。タツキは正直、途方に暮れた。これ以上の悲劇はもう、ほんの僅かだって受け入れる余地が無いというのが正直な所であった。今でさえ、この仏壇の前にいることが辛くてならないのである。心が毀れてしまいそうなのである。しかしだからといって清子の発言を拒絶することなぞ、できやしない。
「何?」
「これから、C県の病院に、一緒に行って頂けますか。」
それは意想外の発言であった。
「は?」
「弁護士さんとのお話し合いはその後、する手筈になっています。」
タツキは訝し気に眉根を寄せた。
「C県の病院って……、うちの系列じゃない、だろ?」
「系列ではございません。……ただし、」清子の顔は幾分蒼褪めているようにも見えた。「タツキさんにとって、とても大事なことが……、いえ、この岩村家にとってとても大事なことが、あるんです。」
タツキは途方に暮れて、そのまま暫く黙した。清子の非常な決意じみたものは、伝わってきた。したがって、絶対的に自分はそれに従わねばならぬことも。
「C県まで、どうやって行くの。」
「暫くご葬儀のあれこれで必要だからと、弁護士さんの方でお車を雇って下さっておりまして。間もなく到着します。」
そこまで手筈が整っていたのか。ますます自分が拒否をする権利はないではないか、とタツキはさすがに少々驚いた。
タツキがちびちびと茶を飲み終える頃、はたしてチャイムが鳴った。
「お車が参ったようでございます。」
清子はさっと立ち上がって、タツキを促すようにして、これも見たことのある古びたハンドバッグを手にした。