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タツキはその直後、呆然とする中店長の車に乗せられ駅に向かうと、そのまま新幹線のチケットを握らされ席に凭れることとなった。ここから三時間で、故郷に着くのである。
新幹線はやがて出発する。タツキは知らぬうちに、弁当を握らされているのを知った。ここまで連れてきてくれたというのに、店長に礼も言わないどころか、この弁当代も、チケット代さえも払っていなかったということに気付いたのは、既に故郷の駅まであとわずかとなった頃合いであった。すなわち、春の兆しが訪れた東京とは異なり、未だちらほらと雪が残る冬の風景を目にした時であった。
――父が死んだ。母が死んだ。姉も死んだ。風景は何一つ変わってはいないのに、あの時自分の最も身近にいた人たちは既にこの世からいない。
それは到底信じられないことであった。だとするならば、自分はどうして今、絶対に乗る気の無かった、故郷へ向かう新幹線なんぞに乗っているのだろう。何か、とてつもなく不吉な間違いであるような気がしてならなかった。叫び出したい欲求。ひたすら早く目覚めてくれと希う。
しかし叶わぬままタツキは遂に、自宅の最寄り駅に降り立った。駅中の店々も、それから駅前のロータリーも、ホテルも、パン屋も、何一つ変わっていなかった。しかし思っていた程に嫌悪感は沸き起こってこなかった。そればかりか懐かしいと、どこか喜ばしいようなくすぐったいような思いが沸き起こってくるのである。
「タツキさーん!」駅を出ると、横断歩道の向こうからそう自分を呼ぶ声がした。ふと見ると、タツキは息を呑んだ。
「清さん……。」白髪が増えた。随分小さくなったような気さえする。けれどその人は、自分に唯一愛情を注いでくれたその人に間違いはなかった。見たことのあるグレーのジャケットを着ていた。
「清さん!」タツキは走り出し、道を渡り切ると老婆をかき抱いた。
「タツキさん、タツキさん、お久しぶりです。よくぞ帰ってきてくれました。本当に、本当に……。」清は涙を流しながら幾度もタツキの腕を摩った。
「清さん、大変だったろう。ごめんな、俺が連絡先も知らせてなかったから。まさか、こんなことになるなんて……。」
「いいえ、いいえ。」清子は涙でいっぱいになった眼でじっとタツキを見つめた。「本当に突然のことで。……でも、弁護士さんと、それから病院の方々が助けて下さいまして。」
タツキは盛んに肯いた。
清子は遂に目元を使い古したハンカチで覆った。
「大変、だったな……。」
「……ええ、ええ、全ては突然のことで。ご葬儀も終わったと言うのに、まだ信じられません。」
いつしかタツキの胸中にはやはりこれは事実なのだ、という確信めいた思いが沸き起こって来た。父は、母は、姉は、そしてその家族は、死んだ。だから自分が五年ぶりの故郷に戻ってきている。
二人は肩を撫で合い、手を握り、やがてとぼとぼと自宅へと向かって歩き出した。家は駅から十分足らずである。二人はほとんど断片的な言葉で会話をした。
「タツキさん、ご立派になられて。」
タツキは今更ながら恥ずかし気に、肩まで伸ばした長髪を撫でた。「音楽、やってるから。」
「お小さい頃から、音楽の天才でしたもの。」
タツキは恥ずかしくなり、「事故っていうのは、いつ?」と辛い質問を口にした。
「……ちょうど七日前のことでございます。私は留守を仰せつかっておりまして、自宅にいたのでございますが、ちょうど皆様がお出掛けになられて、五時間も経った頃、お昼過ぎに警察から電話が入って……。」声は涙ぐんで止まる。
「事故は、……どこで?」
「お父様、お母様、お姉様にお姉様の旦那様、そのお坊ちゃまで温泉旅行に行く最中だったのであります。大きなタクシーをお借りして、運転手さんもお願いをして。それで高速道路を運転なされている最中に、」再び鼻声になった。「……反対車線から急に、トラックがぶつかってきたそうなのでございます。正面衝突で。信じられません。運転手さんもこの道三十年という大ベテランの方で、実際なんの問題もなかったそうなのでございます。ですから、本当に、相手のトラックの方がどうして飛び出してきたのか……。何度も警察の方からご説明を受けましても、そんなことがなぜあり得るのか、いまだわかりませんです……。」
「それで、……その、すぐに……?」
「ええ。……即死、ということでございました。御遺体にも、お目にかかることはできませんでした。お手伝いの身でもありますが……でも、損傷がかなり激しいと。トラックの方もすぐにお亡くなりになられて……。テレビでも随分報道されたようでございます。見られてはないですか?」
「ああ。」
脚が止まる。がっくりとタツキは項垂れた。あれ程に憎んでいたはずだのに、そしてその中では確かに死さえも希求したはずだのに、全く良かったなどという思いは湧いてこない。それ以前に未だどこか半信半疑であった。父母が、かつて自分にしたように、陥れようとしているだけなのではないか。しかしそれでいい。会わずに互いのいいと思う道を歩んでいくのが、この家族に残された最後の幸福なのだ。タツキはどうにか再びゆっくりと自宅へと重い足を歩ませた。
「姉さんは、結婚したんだ?」
清子は事故から話が反れたことでほっとしたように見えた。「ええ。大学を出られてすぐのことでした。旦那様となられた方は、お父様の病院でお勤めになられている、お若いのに、アメリカ帰りの、腕のある、非常に優秀な外科医のお医者様でございます。すぐにお子様もお生まれになり……」突然清子は黙った。どうしたのかな、とタツキは隣の清子を見遣る。唇が小さく震えていた。「ご一緒に亡くなられたのは……、まだ、一歳になったばかりの、お坊ちゃまでございます。」打って変わったように呟くように言った。
「男の子、なんだ。」とても過去形では話せないというのが、二人の暗黙の了解のようになっていた。
「ええ、ええ。利発で、サクラ様によく似て、目鼻立ちのはっきりした……。」
「子どもは一人?」
清子は再びはっきりと、黙した。タツキは不審に思い歩みを緩め、清子を見た。清子は何か見えぬものを凝視するように、じっと考え込んでいた。
そしてタツキははっとなった。もしかすると、流産をしてしまったとか、そういう、言うに言われぬ事情があったのかもしれない。うかつなことを聞いてしまった。タツキは気付けば目の前に迫って来た自宅を眺め「ああ、うちだ。何も変わらないな。ちっとも、変わらないな。」と焦燥しながら呟いた。
清子が門扉を開け、玄関の鍵を開ける。
おそるおそるタツキは一歩家に入り、そしてあっと顔を歪めた。苦しい程の線香の匂いがそこに充満していたのである。
タツキは清子の後を付いて仏間に入った。そして今度はああ、と声にならぬ声を漏らした。そこには見たことのない大きな仏壇が飾られ、そこに五人の写真が飾られていた。少し顔を顰めたように見える父と、何かのパーティーの時でもあろうか、幾分濃い化粧をした母、それから自分が知っているようにも随分大人びて見える姉と、その隣には自分の知らぬ、精悍そうな顔つきをした青年と、無垢な笑みを見せる赤子の写真とが、並べて飾られてあった。タツキはそれを見たまま、立ち尽くした。電話で弁護士から告げられた、あの時にも勝るとも劣らない恐懼がタツキを襲った。
タツキは崩れ落ちるように畳に腰を下ろした。