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ほんのりと風の中に春の匂いを感じさせるようになったとある朝、タツキはライブハウスの入口に布団を運んで干し、そこを楽屋に落ちていたドラムのスティックで叩きまくっていた。自ずとそれは今作曲途中の曲を刻んでいくこととなる。埃が春の日差しに舞うのを、暫しタツキは目を細めて眺めた。
「おはよう。」とそこにやってきたのは、ここ数年全く変化の兆しさえない店長である。「何か、凄いな。ここだけ。生活臭が。」
「そりゃあ、ここで生活、してるんすから。」
「そりゃそうだ。しっかし、もう、……お前がここに来て五年か、早いな。」
「すっかり世話になっちまって。」
店長はぎこちなく肯く。「何言ってんだ。今やお前の方がバンド連中との関係も厚いし、ブッキングやらせても当たるしな。……でも、お前本当にここに、いつまでいる気なの。」
「骨を埋めさせてもらえば、それ以上のことは、なんも。」
「それって死ぬまでここに居座るってことか!」
「なんなんすか、今更。俺はここにい続けますよ。毎晩ライブ見放題。自分のステージングの勉強にもなるし、駅もスタジオも近くて立地は最高だし、銭湯も近ぇ。俺の理想郷だ。『住まい』ってタイトルで一曲書けそうなレベルで。」
「だせえタイトルだな……。まあ、そう言ってくれるのは嬉しいが、でも、もし人間らしい暮らしをしたくなったら、いつでも言ってくれていいんだからな。遠慮しねえで。」
「何すかそれ。まるで今俺が人間らしい暮らしをしてねえみてえな言い方じゃねえすか。」
店長はそれには答えず、ちら、とライブハウス前に干された布団を目に、溜め息交じりに扉を押し、入る。
自分がひょんなことから人一人の人生を変えてしまったような、そんな気がしないでもない。何でも、こんな家なき子のような生活をしているものの、噂によればどうにも大したところのお坊ちゃんでもあるらしい。その割には親が探しているという話も聞かないし、親からの電話一本かかってくることもない。もういないのか、余程関係が悪化しているのか。いずれにしても、無理矢理に実家と連絡をつけろというのも心苦しく、好きなようにやらせていたら、いつの間にか数年が経過してしまった。
上京してから始めたバンドも、メンバーチェンジもなく頗る順調なようである。幼少時からクラシックピアノをやっていたとかで知識も技量もあるし、楽曲のセンスも他のバンドで一山当てたいという有象無象とは段違いであった。上京して以来世話をしているから、という欲目をなしにしても、もしかすると、という期待を抱かずにはいられないのであった。
タツキは地下への階段を降りていく店長を見送ると、この天候と先程の店長の言葉のせいか、うっとりと目を閉じ、自分がこの新しい地に足を踏み入れた、あの日の朝のことを思い出していた。あの清新な朝の風景は、今でもはっきりと、それも神々しく思い出されてくる。全ての負の感情と決別し、そして本当の自分としての人生を踏み出すことになったあの日を――。
東京に来てからというもの、雪なんぞ年に数回しかお目にかかる機会はないが、故郷の雪はまだ当分溶けやしない。寒風はいつまでも刺すように痛く、いつも自分の手は悴んでいて、ピアノを弾けるようになるまで長々と練習曲を弾いて指を温めたものだ。――懐かしい。なぜだろう。あんなにも逃げ出したいと思った故郷の、気候とピアノに没頭したあの経験だけは今も思い出すと胸が温かくなる。
その時であった。店内から電話の音が鳴った。店長が取るであろうと思いつつも一応自分の仕事であるので、タツキは慌てて階下を二段飛ばしで降りて行った。果たして店長が電話を取っていた。
「……はあ。『イワムラタツキ』はうちの従業員ですが。」
タツキは不審げに店長の傍に近寄った。今日のライブについての問い合わせか、それともバンドマンからの出演依頼か、そんなものかと思っていたのである。まさか、自分あてのそれであるとは。たしかに多くのバンドマンと交流を広げた結果、自分あてにこちらに電話がかかってくることはままあるものの、フルネームを知るものは少ないと思われた。大体I AM KILLEDのタツキ、で話はつくのである。
「ええ。……もう五年になりますかね。住居は、こちらです。職場兼住居。」
ますますタツキは眉根を曇らせた。バンドマンの中で自分の住まいがここであることを知らぬ者はいないはずである。ライブハウスに住んでいると言えば大抵誰でも瞠目し、自分を覚えてくれたから、いわば名刺代わりにタツキはその逸話をもって自己紹介するのである。
「ああ、わかりました。では、今本人に代わりますので。」
店長はおもむろに受話器をタツキに突き付けた。
「誰すか。」
「弁護士さんだそうだ。」
全く覚えがない。タツキは首を傾げ、「もしもし。」と受話器を受け取った。
「突然のお電話、失礼いたします。イワムラタツキさんでしょうか。」男の声は低く、淡々としていた。
「……そう、ですが。」タツキは緊張をもって応える。
一瞬の間が空いた。「わたくしイワムラシュウジ様の弁護士をしております、木村と申します。」
タツキの脳裏に長年忘れていた父親の顔が一気に広がっていく。それと同時に、家によく出入りしていた人の中に、たしかに弁護士がいたなとそんなことさえも思い出された。
「弁護士さんが、俺に何か……?」
「ああ、タツキさん、探しておりましたよ。」少々弁護士の声は安堵を含み、人間的なそれとなった。「かれこれ一週間、上京してからのタツキ様の足取りを調査し続けておりました。」
「……どうして。」全く、故郷に関連した誰かに探されるなんぞ、身に覚えがないのである。
「実は、早急に連絡をしなければならないことがございまして。」
「何ですか。」さすがにタツキは眉根を寄せて訊ねた。「親父のことなら、俺はもう、……家を出た人間ですから。関係ありません。」
「そうも言ってはいられない事態なのです。タツキさん、落ち着いて聞いて下さい。よいですか。」
「何ですか。」弁護士のもったいぶった言い方が不快感を呼び起こした。
「……その、一週間前に、シュウジ様、ユリコ様、サクラ様、そしてサクラ様の御主人、娘さんが、事故に巻き込まれまして、そして、……お亡くなりになりました。」
タツキは息を呑んだ。急にずしりと受話器が重くなる。目の前が一気に色を喪った。何か、とんでもない聞き違いをしてしまったような気がする。鼓動が激しくなった。
「早急にタツキ様にご連絡差し上げたかったのですが、なかなか行方が知れず。興信所に依頼し、どうにか只今、連絡先を知り、そしてこうして今、電話をしているのです。申し訳りません。葬儀は病院の方々が中心となって執り行う形で、四日前に終えてしまいました。」
その言葉は遠い所から響いてくるようである。タツキはどこかこの世の出来事ではないような気がして、そのまま茫然と立ち尽くしていた。知らず、店長がタツキの腕をぐいと握りしめた。
「ご心痛お察し致します。それでご両親の遺産相続のこともありますので、一度ご自宅の方に戻って頂けないかと。」
タツキは何か言わなければならないとだけ思ったが、喉が干上がったようで何も言葉が出てこない。それ以前に何も、言葉が浮かんでこない。――父が、母が、姉が、死んだ? 一体どうして。なぜ。
「シュウジ様とここ五年間、ご連絡を取り合っていなかったことは存じております。でも法律上、シュウジ様の遺産を継いで頂くのは、サクラ様亡き今、タツキ様しかいらっしゃらないのです。」
「俺は、……父親に怒られてばかり、いて、……」ようやく出た言葉は、タツキでさえ予想してはいなかった自虐となるそれであった。
「失礼ながら、それも存じております。でも今や、イワムラ家の人間はタツキさんだけなのです。イワムラ家には財産と邸宅に別荘と、それから……、否、直接申し上げたいこともあります。何卒、できるだけ早く来て頂けますようお願いできませんか。」
「……わかりました。」タツキはつい先ほどまで、自分が春の到来を楽しんでいたなどということは完全に忘れていた。ただただ、忘れていた本当の故郷の姿が、家族と共に過ごした故郷の姿が、まざまざと蘇ってくるのだった。




