21
タツキは無心であった。ライブハウスを埋め尽くしている客にも、そこから昇り立つ熱気にも、何も感じなかった。それよりも、リョウの曲の世界に没頭した。ミリアは言った。リョウの曲を好きになればいいのだと。リョウの気持ちに寄り添えばいいのだと。何も経験のない自分にできることは、それしか、ない。
「お前、……何考えてんだ。」
今しがた聞いたばかりのミリアの言葉を反芻しながら、スタジオでリョウに合わせてギターを弾いていると、ふと、目の前に座っていたリョウがそう苦笑しながら言った。
はっと我に返り、タツキはリョウの顔を驚いたように見つめた。
「え。」
「ぼけーっとしやがって。……何か今、ミリアに言われたんか。」
「その……。」言語化するのに時間がかかった。音楽に専念していると、言葉をにわかに忘れてしまうのである。「リョウさんがどうしてこの曲を生み出したのかって。」
「あはははは!」リョウは膝を叩いて笑った。「随分さかのぼったもんだなあ!」
タツキは恥ずかし気に俯く。
「あいつが、それを考えろって言ったんか。」
「否……。リョウさんの曲を好きになってくれって言われて、そのためにどうしたらいいかって考えてたら……。」
「あはははは! たしかにな。そうしてくれたら、ありがてえな。」
「あの、実際。」タツキはここぞとばかりに身を乗り出した。「リョウさんは、どうやって曲作るんですか。どうやって、……っつうか、その……。」やはりまだ、巧く言語化できない。
「まあ、色々だな。」身も蓋もないことを言った。「でもな、基本は曲のイメージをリアルと見分けがつかなくなるまで凝視する。はっきりと、思い起こす。俺の場合は、過去だな。過去を現在にするぐれえに、目の前に持ってくる。それが音を生み出してくれる。俺だけの特権だな。」
「過去、って何すか。」
リョウは口元だけで笑って、しかし、答えようとしなかった。
リョウの話は噂で聞き及んでいた。地方の施設出身であること。そしてそれ以前に、ミリアと同じ父親の元で幼少時代を暮らしていたこと。あの、話題になった深刻な虐待の映画のモデルとなった、ミリアと――。
「それって……、辛く、ないすか。」そう問いかける声はさすがにしわがれていた。
「……そういうもんだろ。この世に質量あるものを生み出すっつうことは、自分の一部を切り取らねえと割に合わねえ。だから俺は昔から、――そうだな。自分の得た経験を凝視して曲を作ってる。それ以外にも方法はあるんだろうが、俺は知らねえ。気付いたらこうなってた。」
タツキは唇を引き結ぶ。
「いつもそうやって、曲作ってるんすか。」
「まあ、俺はな。」
「それ、ミリアさんも知ってるんすか。」
「あはははは!」
突然の哄笑にぎょっとしてタツキはリョウを見た。
「あいつに曲の説明してやったことなんざ一度もねえよ。」
「え、じゃどうして。」あんなにそっくり音質に至るまで同一であるのか。
「こりゃあ完璧手前みそだけどよ、ソロ作れっつうと、俺の理想を体現したようなやつをちゃあんと作ってくんだよなあ。あいつが勝手に俺の曲の主題、みてえなのを読み取るんだよ。俺の思いをな。丸ごとそっくり。下手すっと、俺が気付かなかったような部分まで。しかもそれを勝手にシュンやアキらに解説してっ時さえあっかんな。なんなんだ、あいつは。」
「本当ですか。」
「ああ、もちろん。」
タツキはがっくりと肩を落とした。もうダメだ。自分がミリアの代理としてステージに上がるなんて、端から不可能であったのだ。
その落胆を知ってか、「……俺、最初にお前の曲聴いた時に、どっか懐かしいような気がしてな。俺が作る筈だった曲、みてえな。そんな感じ。だからこいつなら、俺の曲をミリアみてえに解釈してくれんじゃねえかって、じゃねえかじゃねえな。こいつなら大丈夫だっつう確信が生まれたんだ。」リョウは言った。
タツキは目を丸くしてリョウを見詰めた。
「勘違いじゃ、ねえと思うんだけどな。」
タツキは知らず鼓動が高まっていくのを感じた。
自分の場合にも、多かれ少なかれ父母から排除され、憎悪され、そして寂寥を抱えながら生きていた、あの経験が曲に投影されている。それは誰に教えられたのではなく、そうしなければ自分が破壊されてしまうという、一種の焦燥にも似た創作意欲からであった。リョウの話は自分のそれとよく似ていた。テクニックは、リョウにもミリアにも到底敵わない。ライブの経験であったって、彼らの千分の一にも満たないであろう。しかし自ずと生まれ出ずる曲のプロセスだけは、作曲者としての在り方だけは、同じなのだ。タツキは初めて自分の中に自信、のようなものが生じてくるのを感じた。
今やタツキの目の前にあるのは、だから満杯に埋め尽くした客でも眩いライブハウスの照明でもなかった。
ただただ、リョウが感じたであろう過去の記憶、――その正誤は当然わからぬが――であった。薄黒いそれはいつしか自分の過去とも重なり、そして交じり合っていく。タツキは必死にそれを音として具現化するためだけに、ギターを奏でた。
ミリアのプレイを希っていた客も、すぐにタツキのプレイに見入ることとなった。この突然現れた無名のギタリストは、確かなる必然性を伴ってLast Rebellionの新しいピースとなったのだ、ということが全ての観客に理解される所となったのである。
タツキは無限にも近い風景を観た。
――奈落の底へと落ちていく。爪を立てようにも引きずられ、一切の抵抗ができない。無力。完璧なまでの、無力。恥ずかしい。こんなにしてまでこの世にしがみ付いていなければならないのか。いっそ全てを終わりにしてしまえないのか。
周囲を自分には無関心に過ぎ去る人々がいる。その傍で己の肉体が腐敗する。朽ちていく。無力で何もない自分は腐っていくしかない。なぜ。なぜ、生まれた? なぜ、ここにいる? 時は永遠に悠久で、世界は無限と同義なまでに広大だというのに。
疑念が、不満が、力を集めていく。
ようやく腐敗し切った脚でその場に立ち上がろうとする。それは容易ではない。しかし立ち上がったその時、高みに上った感覚が、確実にあった。
どうでもいい。なんでもいい。
答えは自分で出す。何も期待なぞしない。
その瞬間放たれたリョウの咆哮が自分の背を押していく。
タツキはその時初めて目の前の現実を見た。そこには押し寄せる観客が、挙って自分を力づけてくれるような笑みを向けている。タツキは全ては間違いはなかったと、そう確信して頬を濡らした。突き上げるような感謝が、苦しいぐらいであった。