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名家の夫婦はいつしか、グランドピアノの鎮座する防音室に籠り切りになるタツキに悪態をつくのが常となった。無論このピアノも、その音に魅了されたというのではなく、家柄に合ったものをと地元の楽器店に言い付けて持ってこさせたのである。
「顔を見なくていいのは清々するけれど。」遅い夕飯を終えた母は、溜め息を吐きながらテーブルに伏すように、片付けに精を出していたお手伝いの清子に言う。「ああまで家のために益にならない者を養うのは、腹が立って腹が立って……。」
清子は食器を片付け終わると、おそるおそる美しい顔を曇らせ切った母に声を掛けた。「タツキ様に、今度のピアノコンクールの出場に関して先生からお話がございまして……。」
「サクラにはないの。」怒気を含むような声であった。
「……はい。タツキ様だけに。」
「勉強もしない、できない一家の恥さらしのことなんて、私も主人も面倒見る気ないわ。コンクールでも何でも、勝手にやっておいて。お金はいつもの口座に入れておくから。」
「……はい。かしこまりましたです。」そう答える清子の眼差しは悔しさとも悲しみともつかぬ涙に潤んでいた。彼女はタツキの唯一の味方であった。その素直で、明るく、音楽の才に溢れながら、誰からも認められていないこの名家の長男を、殆ど親代わりとなって愛していた。
「タツキさんは、音楽の才能があるんですよ。」学校から帰るなり籠りきりになっている防音室に、清子はタツキの好きなココアとクッキーとを携えて持って行く。これも、父母が仕事で不在であり、姉もまた塾と、家の中に誰もいないからこそできるのである。タツキの世話をやくのは無論、うかつに話しかけることさえ、家庭内では禁忌であった。
清子は昔、タツキが家庭科の授業で作った、下手糞な猫のアップリケの付いたエプロンを着け、ピアノの近くのサイドテーブルにおやつを置いた。
「コンクールですって、今度関東大会でしょう。タツキさんでしたら、きっと全国大会にも行ってそして優勝して、そしてヨーロッパからお呼びがかかって……。」
「そんな訳あるかよ。」タツキは練習の手を止め、呆れたように清子を一瞥する。と、鼻腔に誘惑の香りが漂ってくる。たまらずタツキはココアにそっと手を伸ばし、口を付けた。
「ですってねえ、タツキさんのピアノを聴くとですねえ、心がこう、……わくわくと嬉しくなりますよ。」
「ただの練習曲じゃん。」
「違いますよ。」タツキは不貞腐れた顔をしつつも、内心は嬉しくてならない。こんなことを言ってくれる人は、ここにいる、世界でたった一人だけなのだ。「お姉様の音は真面目に譜面を追っているだけ。タツキさんのはこうね、風景が広がりますよ。ふわーっとね。」
「ふうん。清さんは変だな。」
「変じゃあありませんって。」清子はこうしている時間が嬉しくてならないとばかりに、今度は張り切って窓辺に生けた花をさっさと手早く直す。「タツキさんのことがわからない人の方が、遥かに変です。」それは暗に両親に対する批判であった。「タツキさんは将来音楽家になったらいいですよ。世界を舞台に、こうね、ピアノを弾いて回ったら……。」うっとりと目を閉じた。
「医者にはなれないからな。」
清子はタツキを睨むように見据えた。
「……医者になるばかりが正しい人生じゃあありません。タツキさんにはタツキさんにしかできない、ご自分だけの大切な大切な使命があるんです。」それは低い、確信めいた声だった。
「使命?」
「そうです。」清子は再びゆっくりとタツキに向き直った。「人が生まれて来るってことには、大きな意味があるんです。それは、その人にしかできないことがあるから、この世にいるってことなんです。ですから使命がなくなれば人は死にます。タツキさんはこうして毎日元気に生きてらっしゃる。そして毎日毎日新しい曲が弾けるようになって、上達されていく。それで私を幸せにして下さる。ですから、それは、タツキさんに大きな使命があるってことなんですよ。」清子はなぜだか声を潜めてタツキに迫った。
「ふうん……。」だとすれば、清子の夫という人は使命を失ったから死んだのだろうか。タツキは口にこそできないが、そんなことをふと思った。
「まだ小学生のタツキさんにはわからないかもしれませんけれども、タツキさんには、タツキさんにしか成し遂げられない大きな使命があるんですよ。それだけはしっかとお胸にしまっておいてくださいましね。」
「わかったよ。」と答えたものの、タツキにはそんなことはよくわかってはいなかった。毎日父母と顔を合わせれば馬鹿だ、クズだ、極潰しだと罵られる。姉に話し掛けることも、もう何年も禁じられている。姉も自分をいるんだか、いないんだか、まるで見えていないように接する。自分にだけしか成し遂げられないことがあるなどと言われても、そんなことはとてもではないが、わからなかった。ただ防音室にいれば父母の罵倒から逃れられる。冷たい眼差しから逃れられる。それもタツキが音楽に専念する大きな理由となり得ていたのである。