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STIGMATA  作者: maria
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 両親も、姉も、自分が思う正しさを胸に、必死に生きていたのだと今になっては思う。ただ、自分が生まれもってしまった魂とは、悉く合う人たちではなかった。なぜこんなにも違っているのに、自分と彼等を家族、などという緊密なカテゴリーに埋め込んでしまったのか、タツキはさすがに今更神を恨みはしないが、しかし家を出て五年が経った今でも、不意に家族を思い出すと少々の精神的疲弊は覚える。払拭は、できない。

 タツキが家族と訣別をしたのは、中学を出たのと同時であった。何せ卒業式のその日のうちであったのである。タツキは家では完全に、余計者であった。なぜなら勉強と名の付くものにはとんと相いれなかったから。ほんの僅かにも頭に入ってはきやしなかったから。

タツキの家はそれこそ江戸時代、殿様の侍医をしていたというぐらいに代々続いた医師の家であった。地元では誰も知らぬものはいない程大きく評判のいい総合病院を経営していた。その家に生まれた以上、男子たるもの医師となるのが当然であったし、そう、親も信じ切ってタツキを育てようと試みた。しかしタツキは全くと言っていいほどに、勉強というものにはなじめなかったし、拷問と同じであった。そもそも学校だって逃げ出してばかりいて、ちっとも腰を据えて教師の教えを聞き入れるということがなかった。タツキの魂は学校がもたらしてくれるものとは、全く別のものを欲していた。

曰く、音楽――。

親が単なる教養として(あるいは指の運動は脳にいいと聞いたものであるから)ピアノを習わせたのが、思えば先祖代々から続くレールを外れさせてしまった大きな過ちであったと言えるのかもしれない。しかしタツキは親から与えられなくとも、自ら巡り合ったに相違なかった。なぜなら、タツキには類稀なる音楽の才があった。ピアノ講師が奏でてみせる音楽を、たった一度聞いただけで惑うことなく再現することができるようになったのは、レッスンを開始して間もない頃、おそらく物心つくかつかぬかの頃合いであった。音大の教壇に立つこともある権威あるピアノ講師は、その才に瞠目した。是非とも音楽の道へと親に談判を申し出たこともあったが、病院の嫡子に何を言うのかと鼻で笑われて終いとなった。しかし当の本人は、そうではなかった。幼稚園に行き出しても、まったく教師の話を聞こうとはしない。這ってでも、すぐにピアノの傍に行ってしまう。家に帰っても友達と遊ぶなどということもなく、五つ上の姉を蹴飛ばしてさえピアノの前に坐りたがる。小学校に入る頃には、叔父(こちらも父の病院で医師として勤めている)が若い頃買ったギターを入手して、今度はそちらにかかりきりとなった。父が激昂しても、母が泣き叫んでも、一向にタツキはその音楽浸りの生活を検めようとはしなかった。小学校受験に実績のある、厳しいと有名な塾にも入れた。大学で教えることもある学会では有名な家庭教師も付けた。それでも何も変わらなかった。最早医師にすることはできない、そう親が諦めたのは実に、小学校五年の時であった。

「もう、周りは塾へ行って中学受験に備えているというのに。」そう嘆く母は、国内最高峰と言われる大学を卒え、今や父の病院の事務長として勤務しているのである。

「あれは、ダメだ。私や弟や、とかく医師になる者の幼少期とは何もかもが違う。」

「ピアノなんか習わせなければよかった。」母は憎々し気に言った。「あんなもの……。」

「全てが全て、ピアノのせいではないよ。」父は溜め息混じりに言う。

「桜子が、」母は厳しい眼差しできっぱりと言った。「病院を継ぎます。お婿さんを貰って。」

「……ああ。そうするしかあるまい。」

タツキの姉は、幼い頃から神童の名をもって呼ばれ、今や県下ナンバーワンと言われる進学校に合格を果たし、医学部専門の予備校に通いながら既に大学受験に向けて日々勉学に励んでいた。

「しかしあんな出来損ないがうちを出入りしているだけで心象が悪い。どうにかならないのか。」父は憎々し気に言った。

「あれは、中学を出たら、家を出します。」母はきっぱりと言った。

さすがに父親は瞠目した。「寮にでも入れるつもりなのか。」

「もう、何でも構いません。とにかくもう、あとたった五年ですから。あとは私が何とかします。」そう唇を震わせる母親の顔を、父親はしかしどこか安堵した表情で眺めていた。


父親がまだ医局を出たての頃、母と結婚したのは今は亡き祖父の伝手であった。病院の拡大を考えていた祖父はどうしても、単なる見た目だけの嫁では不足であると考えていた。自分の妻が浪費癖のある女であった反動というのもあったのかもしれない。ともかく自分の後継ぎの嫁として、病院の更なる拡大のため、先祖の遺影に堂々と向き合うがため、格別の才女を選びたかった。それで片親で貧しい家の出身でありながら勉学に励み、日本最高峰の大学を出た母親に頭を下げ、来て貰ったのである。母親の実家はそれによって、初めて持ち家というものを有した。働き尽くめであったタツキの祖母にあたる人は、人生初めて悠々自適の老後を送ることができるようになった。それで母親は父への愛情よりも(無論それを否定するものではないが)、義父に限りない恩義を感じた。どうにかして自分の働きと、それから自分の産み落とした子でもって、この病院を一層興隆させていくのだという決意めいた思いを抱くに至った。しかし初めての子は女の子であった。母は胎児の性別が判明するや否や、泣いてそれを義父に詫びた。義父は慰めつつも、しかしその心根の奥深くにはやはりどこか、残念がる気持ちがないでもないのである。とかく初産を安心して迎えられるよう、自分の病院のスウィートルームもかくやという個室を半年間与え、看護師に24時間の世話を命じた。それによって母は至極安産で長女を出産した。それから間もなく、二人目の妊娠を、今度こそは立派な男児をと、国内外片っ端から、それこそ聞いたこともない神社にも詣で、医師の家系としてあるまじき怪しげなサプリメントまでを取り寄せ、そうして五年の月日を経て漸くできたのが、タツキなのであった。妊娠が判明した時、母は歓喜した。そして数ヶ月の後、それが男児であることが判明し、歓喜は狂喜へと変わった。これで病院も安泰であると、祖父への恩義を返せたと、一人随喜の涙を流し続けた。

祖父は今度こそと、病院の産科の一室をリフォームまでして、一流ホテルのそれと変わらぬ部屋を拵えた。母はそこで再び、格別の看護を得、前回よりももっと軽いお産でタツキを出産した。体のどこにも異常はなく、病一つせず、すくすくと育った。母は今度は育児が肝要と、図書館ばりに国内外から絵本を買い集め、立派な医師と育てるべく、自分の与えられなかった英才教育を、金と自身の学力でもって惜しみなくタツキに注ぎ切った。

しかしタツキは絵本よりもクラシックの音楽に興味を示した。絵本を開こうとすると、それよりも音楽を聴かせろとレコード置き場に這っていってしまう。それを愛らしいものと眺められたのは、どうしたって幼稚園に入る前までであった。あまりにタツキが絵本よりもレコードを流せと請い、おもちゃのピアノを好むものであるから、姉の行っていたピアノ講師の元へと通わせることとしたのであるが、その選択が母からすれば人生唯一にして最大の過ちとなった。タツキはピアノにしか興味を示さぬようになったのである。それから叔父の残したギター、ピアノ講師の家にあったバイオリン。絵本なんぞには見向きもしなかった。母は何度も大きな声を上げ、時には叩き、それでもどうにもならぬとなると、書斎に無理やり押し込め、飯を抜いたこともあった。それでもタツキはがんとして母の命に従わぬ。ピアノを弾かせろ、レコードをかけろと訴える声は、最早何かに呪われているようにしか母には思えなかった。ありもせぬ過去の過ちを思い出しては悔い、再び神社を巡ったりもした。しかしタツキが小学校受験のための塾さえ放棄し、やがて受験当日無理矢理連れ出した受験会場から逃走した時、母は疲弊と共に憎しみを覚えた。産まれて初めて、自分の努力ではどうにもならぬことがあるのだとまざまざと教え込まれ、普通一般の女であれば挫折感を覚えるものの、挫折を知らぬ彼女は限りなき憎悪を滾らせた。タツキを自分の見える範囲から排除することを、実にタツキが十になるかならぬかの頃から考え出すに至ったのである。

「あれは、いなかったものとします。」母親はそう冷たく言い放った。「私の子は、桜子だけです。」その言葉は父の脳裏に深く刻まれた。そうすることで父もまた、長らく休まらなかった気持ちを落ち着かせることができたのである。

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