第九七話 指極星(一三)
親族、関係者以外で静のLBA挑戦を最初に知ることになったのは須之内景だった。彼女がバスケットボールを始めたのは静がきっかけである。景には、中学校時代、バレーボール部顧問の厳しい指導に耐えかね、コートを逃げ出した過去があった。以降、部活というものを忌避していたが、静によって半ば強引にバスケットボールに引きずり込まれたのだ。
始まりは高校に入学してすぐのスポーツテストであった。五〇メートル走を終えた景のそばに、彼女より二〇センチは低いような女子生徒が寄ってきた。隣のクラスの、名前は知らないが、はっと目につく容貌の、長い髪の少女だ。
「ねえ」
直感で、勧誘だ、と思った。一八六センチと長身の景は、既に何人もの先輩たちから接触を受けていた。もちろん、全て断っている。
「何部?」
やはり、だった。
「……帰宅部」
「おおー、帰宅部! 私、バスケ部なんだけど、興味ない?」
「……ない。バスケ部は、もう断った」
「え。誰に誘われたの?」
「名前は、忘れた」
「ふうん。まあ、それはそれ」
それはそれ、じゃない、と景は胸中で舌打ちしたものだ。この小うるさいのが静だった。長身ながら、ただ者ではない俊敏な動きに、目を奪われた、という。生来の生真面目さで全力疾走したことを景は後悔した。しつこく迫る静に、景は中学生時代の話を披露して、もう部活は結構、と告げたのだが、
「大丈夫。長沢先生は怒鳴らないよ」
まるで人の話を聞かない。実は、少しいらついていた、と今では笑い話となったやりとりを経て、ついに景は鶴ヶ丘高校女子バスケットボール部に入部することとなる。
あの日から三年がたった。景は全国屈指と称される選手に成長した。精神的には静、技術的には長沢。この二人の絶大な支援が景を形成したといっていい。その経緯を加味して神宮寺静と須之内景は盟友関係と目されている。それは景も大いに自任するところだ。今、景が熱中しているのは、夏、秋では不首尾に終わった盟友との全国制覇を、冬の全国高等学校バスケットボール選手権大会で果たすことだった。
進学校寄りの市立校である鶴ヶ丘高校で、この時期まで引退せず、部に所属している三年生は静と景が史上初だとか。他の三年生が夏で姿を消したのに対し、景は盟友と共に最後まで部活を続けることを即断した。受験勉強への影響を考えれば大きな決断にも、全く迷いはなかった。
そして、その心意気を知るが故に、最初に報告しなければならないのは景、と静は考えたのだろう。
「その話」を聞いたとき、正しく景は停止した。
「あ。ごめん、景。私、やっぱり冬まで続けるよ……」
「いやいやいやいやいやいやいや。それは、北崎さんの言うとおり、と思う。気にしなくていい」
尋常でない「いや」を連ねた後で、景はテーブルに突っ伏してしまう。これで、気にするな、は無理な相談だ。ショートカットの頭が、ふるふると揺れている。人けのない放課後の学生食堂は、体感温度を一気に一〇度も下げたようなありさまだった。
今年の高校女子バスケの一番星、神宮寺静の進路は、この時期になっても謎に包まれていた。当人、指導者、保護者、いずれもの口が堅固であったことが要因だ。いきおい、周囲は空想を働かせるしかなくなる。早い段階で高鷲重工、ウェヌスという実業団の二大勢力に断りを入れたことで、進学が有力とはみられていた。だが、その割に、恩師である長沢の直系尊属ともいえる「各務舞大」に向かう様子もない。ちなみに景は各務の勧誘を受けて、舞浜大学の推薦入試を受験している。今は結果発表を待つ身だ。
夏までは、春菜さんを倒す、景もおいでよ、と言って関東圏のスポーツに強い大学の名を挙げたりしていた静が、高校総体での負傷が癒えて復帰した後は、妙にトーンを下げていたのが、気掛かりではあったのだ。各務の勧誘にも、景は行くべき、と言いつつ、私は考えてることがある、と静はお茶を濁していた。それが、よもやこのような帰結になろうとは……。
しばらくして顔を上げた景は目の前の紙コップに手を伸ばした。静のおごりのホットコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
「……静なら、きっとLBAに行けるよ。うん。間違いない」
涙を流しながら、そんなことを言われても、静だって反応しようがなかろう。
「ねえ、景。私、やっぱり……」
「私も冬はやめる」
今度は静の停止する番だった。
「景! 私、冬まで出るって!」
「私も、舞浜大の練習に参加させてもらえるかな。静のトレーニングの手伝いがしたい。来年はあそこでやるんだし、受け入れてもらえると思うんだけど」
「え……?」
精いっぱい強がりを動員して、景はウインクをしてみせた。
「でも、こんなこと言って、落ちてたら、かなり、かっこ悪い。静、各務先生にLBAのこと頼めるぐらいコネがあるんでしょ? 須之内を絶対に落とさないで、って頼んで」
「……言うよ! 絶対に言う!」
静の目からも涙が噴きこぼれていた。盟友同士が手に手を取り合い、互いの手を握り締めた固さは、格別のものとなった。




