第九四話 指極星(一〇)
神宮寺美幸がよそ行きの格好で海の見える丘を訪ねてきたのは、一一月中旬の土曜日のことだ。在宅の三人娘は全員で玄関まで出迎えた。
「はい。こんにちは。だんだんと冷えてきたわね」
「おばさん、それ、いただきます。どちらに行かれてたんですか?」
美幸が脱いだガウンコートを受け取りながら麻弥が問うた。
「きっと、行ってないと思ってたわ」
手荷物に手を突っ込み、にんまりと美幸が取り出したのはCDのケースだった。
「あ。それは『昨日達』のサントラですか?」
孝子は既に意識の外にあり、麻弥と春菜は知っていたがあえて沈黙していたという、この日は映画『昨日達』の公開初日である。
「映画、行かれたんですか? それとも、CDだけ?」
「行ってきたわ。映画館なんて若いころに隆行さんと行って以来よ。二〇年ぶりくらいかしら」
「混んでましたか?」
「いいえ。調べたら、そんなに大ヒットさせる監督でもないってね、漆原って方は。混雑するかもしれない、って動きやすい格好で行ったけど、いつもの格好でもよかったわね」
スカート好きの美幸が、デニムパンツにタートルネックのセーターといういでたちである。
「みなさん。リビングに行きましょう。お土産のお菓子もあるみたいですよ。いただききながらお話を伺いましょう」
玄関で立ちっ放しだった一同は、春菜の提案でLDKへと移動する。
美幸の土産はみっしりと詰まったクッキー缶だった。孝子がコーヒーの準備に掛かり、麻弥がクッキーを小皿に盛り付ける。
「映画、どうでしたか?」
「早く孝子さんの歌がかからないかしら、ってそわそわしてて、あまり記憶にないのよ」
手持ち無沙汰の春菜は美幸の接待役である。
「今日は、お一人で?」
「ええ。静は部活で、那美には振られたの。映画には興味ない、CDだけ買ってきてくれ、って」
「お父さまは?」
「起こす気にもならない」
ここで孝子と麻弥がコーヒーとクッキーを運んできた。
「お持たせですが、どうぞ」
「はい。ありがとう」
全員が着席したところで、また美幸だった。
「そうだ。孝子さん、サインして」
「え……?」
足元に置いていたショルダーバッグをあさって、美幸は先ほどのCDを取り出した。
「したことが、ないんですけど……」
「それはそうでしょうね。那美が、一番にしてもらう、って言ってたけど。一番は私ね」
「これは大人げない」
言って春菜は口元を押さえている。
「はい。観念」
麻弥にペンを渡され、仕方なく孝子はCDと相対する。
「サインって、くしゃくしゃしたやつだよね」
「気にしない。楷書でいいわよ。ディスクに書いてね。聞くためのは別に買った」
美幸は『昨日達』のサウンドトラックを五枚も購入したという。
「……あ」
書き始めた途端、美幸、麻弥、春菜から異口同音に叫びが出る。
「え……?」
「お前、本名じゃん」
孝子はサインの最初の一文字を「神」と書いていた。
「あ。すみません、おばさま。弁償して書き直します」
「いいわよ。そのまま書いて。これはレアだわ」
思わぬ「神宮寺孝子」のサイン入りCDに、美幸はご満悦である。
最終的に『昨日達』は、中ヒットぐらいの興行成績を挙げた。これは、こだわり型の、つまり、生産性の低い監督として知られる漆原敦也としては大ヒットに相当する。当然、この映画に関係する全てが沸き立った。『逆上がりのできた日』にもスポットライトが当たりかかったのだ。
その流れを剣崎龍雅が止めた。剣崎はあらゆる方面からの岡宮鏡子への要請を、ことごとくシャットアウトしていた。
「契約、そして信義です。たとえ首を飛ばされても、岡宮については、何も申し上げることはできません」
契約も信義も事実ではある。しかし、最も大きかったのは神宮寺美幸の存在だ。いきなり弁護士事務所に連れ込まれたことを、剣崎は忘れていなかった。岡宮鏡子こと神宮寺孝子は強硬なだけだが、その母親は老獪だ。あの人を敵に回すのは得策ではない。こうした剣崎の活躍により、岡宮鏡子と『逆上がりのできた日』は、めくるめくような芸能の波の中に、淡々と消えていくことになったのであった。