第九二話 指極星(八)
翌朝、孝子はギターケースを背負って郷本家を訪問している。形になった『指極星』にアドバイスを、と前夜のうちに打診して、信之に快諾を得ていた。関係者以外には聴かせないつもりの孝子であったが、ヒントを与えてくれた信之は、立派な関係者という認識だ。
訪問に際して、孝子は意を用いた。公共の交通機関を利用して鶴ヶ丘に移動してきたのである。車で来て、神宮寺家の敷地にとめておきながら、養家の人たちにあいさつをせぬわけにもいかぬ。ギターケースなど背負って、郷本家に何をしに行くのか、と説明もしづらい。秘密裏に動くのが一番と判断した。
「おはようございます」
ドアホンを鳴らすと、郷本尋道が出てきた。
「おはようございます。朝っぱらに、すみません」
「いえ。うちのおじさん、朝からずっとギター抱えて、ウオーミングアップしてますよ。たっぷり構ってやってください」
「はい」
孝子は応接室に通された。ソファに座っていた信之が立ち上がって迎えた。確かにギターを抱えている。
「やあ。おはよう。待ってたよ」
「今日は、よろしくお願いします」
孝子の案内を終えた尋道は下がっていき、入れ替わりに一葉が入ってきた。手に持っていたミネラルウオーターのペットボトルをテーブルの上に置くと、孝子の隣にどっかと腰掛ける。
「昨日の今日で完成させるなんて、孝ちゃんは天才かな?」
「いいヒントをいただけたので、とんとん拍子に。おじさま、これです」
スコアを渡すと信之は解釈を始める。
「こういうことがあると、私もギター、やっておけばよかったかな、なんて思うよ。交ざりたくなってくる」
ちらりとスコアを見た一葉が言った。
「練習しましょう。私、本職は電子オルガンなので。一葉さんがギターを始められるなら、いつでも、おじさまのギター、お返しします」
「……口だけだよ。それは孝子ちゃんが使って。一葉なんかにはもったいない」
スコアを見るまなざしを上げずに信之はつぶやいた。
「うわ。ひどい言い草だ。でも、もったいない、ってことは、お父さん、孝ちゃんにあげたギター、高いの?」
「……ビンテージだけど、使い込んでるんで、値段は付かないよ」
「なんだ」
「音だよ。音。そいつの価値は、音」
「全く、わかんなーい」
「これだよ。ちなみに、こいつは、私と同い年」
信之は抱えていたギターを、ぽんとたたいてみせた。
「私が死んだら、孝子ちゃんにあげる。一葉、覚えておいて」
「いえ。そういうお話は」
「ほいほい。確かに」
「二〇〇は下らないと思うけどね」
安請け合いがたたった一葉は大笑いしている。孝子とすれば、笑いごとではない。
「おじさま」
「いい、いい。孝ちゃん、気にしないで。私たちが受け継いだって、宝の持ち腐れだし。楽器は、鳴らしてなんぼでしょ」
「そのとおり。よし。孝子ちゃん。力強い歌詞になったね。非常に、いい。ちょっと歌ってみよう」
孝子と信之による『指極星』のユニゾンが始まった。何度か繰り返すうちに、記憶した一葉も加わってくる。すると、信之が主旋律を外れて、『指極星』はコーラスとなる。
「いいですね」
小休止となったところで孝子はうなった。信之のハスキーボイスが、絶妙のアクセントになっていると感じたのだ。
「おじさまにも、加わっていただこうかな」
「孝ちゃん。私には声を掛けないの?」
孝子、止まった。
「うそーん。二人とはレベルが違うしね。でも、もしも、お父さんが歌うんだったら、完成品、欲しいな。静ちゃんへの応援歌だけど、孝ちゃん、融通してくれない?」
「はい。それは、もう」
「こらこら。勝手に決めない。私では剣崎龍雅の要求に応えられないと思うよ」
「いえ。今回は、私が満足するか、どうか、です。私、今のコーラスが、すごくいい、と思いました。ご迷惑でなければ参加してください」
「そうそう。せっかく孝ちゃんがこう言ってくれてるんだし。やってみたらいいよ。一日中、家にこもって、ぼけられても困る」
容赦のない娘の寸評に、最初こそ渋面だった信之だが、聞き付けた息子や妻にも背中を押されて、孝子との協演を承諾した。過去に音楽活動をしていた経験のある彼だ。今更、誕生という表現はふさわしくないだろう。老いらくの音楽家の復活であった。




