第九一話 指極星(七)
「つまらない」話題に替えて、孝子が持ちだしたのは静の応援歌の件だった。LBAという言葉に対する郷本ファミリーの反応は、孝子たちのそれに酷似していた。
「女子のバスケットにもプロってあるんだね」
これは、一葉。
「でも、アメリカだし、レベルが高いんだろうね。バスケットボールっていったら、アメリカのイメージしかないよ」
これは、信之。
「誰か、日本人で行っている人はいるんですか?」
これは、尋道。
「過去には、何人かいたけど。決定的な足跡を残した人は、いないみたい」
「でしょう、ねえ。もし先駆者がいるなら、少しぐらいは話題になっているはずですし」
「じゃあ、静ちゃんが第一人者になるんだ」
「そうなってくれれば、って思いますけど」
「その一助としての応援歌、だね。静ちゃんは、どんな音楽が好きなんだろう」
「それが、ほとんど音楽を聴かなくて。私の曲ならなんでもいい、って言うんですよ。そういうのが、一番、困る」
「孝ちゃんって、どんな曲を書くの?」
「逆上がりみたいな、のんびりした曲しか書けません。だから、困ってて」
「ああー。応援歌だったら、元気で、景気のいいのがいいよね、やっぱり」
「はい。なかなかの難題なんです」
車内の空気がやや停滞しかけたところで、信之が口を開いた。
「いや。そう限定しなくても大丈夫だよ。例えば、国歌には、武器を取れ、立ち上がれ、みたいなスローガンを、緩やかなメロディーに乗せているものもある。肝要なのは歌詞になってくるだろうし、曲のほうは、変に意識し過ぎず、孝子ちゃんの得意で攻めていいんじゃないかな」
それは、意外に新鮮な提案だった。孝子が唯一、和訳まで把握しているアメリカ国歌も、戦いへの鼓舞と自国への賛美にあふれている。光明を見いだした思いのする孝子だった。歌詞に重きを置く。これならば、アップテンポでも、ロックでも、なくていい。
車内での会話を受けてのカラオケは、異例の展開となった。何曲か紹介するよ、とマイクを握った信之が、落ち着いた調子ながら力強い歌詞を備える楽曲を、次から次へと歌いだしたのだ。果ては、英語以外の楽曲にも手を伸ばしだして、師匠の、父親の、多識は承知していた孝子も郷本きょうだいもあきれ果てたものだ。信之の発音が正しいのかすらわからない三人だったので、これは仕方ない。
いくつかの楽曲に着想を得た孝子は、帰宅すると、すぐに楽曲の制作に取り掛かった。熱中のあまり、夕食の時間も忘れて、一心不乱に机に向かう。楽曲の日本語詞を書いているのだ。孝子の楽曲制作は、全て同じ過程をたどる。生粋の英語話者ではない孝子は、いきなり全てを英語詞では書けない。日本語詞、英語詞、曲の順番となる。
孝子は楽曲を仮に『指極星』と名付けていた。歌詞は全て英語とする予定なので、最終的には題名も『the pointers』あたりに差し替えることになるだろう。指極星は極星を指向する星の組をいう。極星の北崎春菜を指向するには、勇気と希望の指極星をしるべに進め、という感じの内容だった。勇気と希望は努力と根性に変える可能性もある。いずれも、よく聞く組み合わせだが、奇をてらっても仕方がない。
「――ああっ!」
突然、肩をつつかれ、孝子は大声を上げて、その方向を見た。麻弥だった。集中し過ぎて、入室に全く気が付かなかったのだ。
「悪い。いくらノックしても反応ないんで、勝手に入った。晩だけど、どうする?」
「え。もうそんな時間? や。悪い、悪い」
「いいけど。調子は、どう?」
「うむ。悪い。とんだスランプ。面倒を請け負っちゃったよ。このまま完成しなくて、静ちゃんに申し訳の立たない羽目にならなければいいけど」
……うそである。関係者以外に聴かせるつもりはないので、そう言った。楽曲の制作は極めて順調だ。日本語詞はほぼ書き上がった。英語詞への翻訳も見えている。曲も、部分、部分で、浮かんできている。一両日中には形になりそうだ。
「晩は、なんだっけ?」
「ポークソテー」
「そうだった。お腹空いたし、ちょうどいい。いっぱい食べよう」
宣言どおり、孝子は珍しく主食の雑穀米をお代わりして、麻弥を驚かせた。頭脳労働の後で箸が進んだのだ。にわかに軌道に乗った楽曲制作に揚々となったのも絶好の調味料となった。とても、とても、とんだスランプ、とやらに陥った人間の食べっぷりには見えなかったことである。




