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未知標  作者: 一族
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第八話 フェスティバル・プレリュード(八)

 では、崇敬を受ける側は、どうだったのか。何を思って神宮寺美幸は、夫と別の女性との間に生まれた子の岡宮孝子を引き受け、守り育ててきたのか。

 それは、美幸にとって、結婚七年目に起きた、青天のへきれきであった。自分の娘が天涯孤独になろうとしている。助けてほしい、と夫に頭を下げられたのだ。よき妻であり、よき母である、つもりの美幸だった。何が起こっているのか。何が不満で、目の前の、この男は、不倫など……。よき夫であり、よき父である、とばかり思っていた隆行の裏切りに、美幸はがくぜんとしたものだ。

 美幸は先走り過ぎた。よくよく聞けば不倫ではなかった。隆行の娘の母親は岡宮響子といい、自分の前に付き合っていた相手であった。しかも、隆行によれば、彼は、響子の妊娠、出産を把握していなかった。高校時代の友人で、今は九州医科大学病院に奉職する医師の連絡を受けた、まさに、今、この間際になって認識したのである。友人氏の生家が営む病院に岡宮響子が劇症でかかったことから、かつての同級生同士の再会が発生し、ひいては隆行の耳に一報が入った。この流れだった。

 当初、美幸は孝子なる少女の受け入れに前向きではなかった。お互い以外に、ほぼ身寄りのない母子の行く末を、ふびんに思う気持ちは、ないとは言わぬが、である。福岡の義父母を頼ってみては、と美幸は提案してみた。誠に善良の人たちで、美幸も彼らには好感を持っている。

「二人に、説明して、納得してもらう時間がない。君なら、すぐに決断してくれる、と思ったんだ」

「え……?」

「響子は、孝子に少しでも多くお金を残すため、治療を受けてないんだ。もう、本当に、時間がない」

 治療の有無にかかわらず、難しい病ではあったという。だが、緩和ケアすら受けないとは……。響子の、娘を思う気持ちに打たれた隆行の友人は、頼まれてもいないのに主治医のように振る舞っているそうだ。渋る響子に、隆行を頼れ、と説得したのも彼らしい。

 美幸の考えも改まった。二人の娘を持つ母として、響子の行動に心を動かされた。余命いくばくもない響子に、せめて、愛娘の将来は安泰、と伝えたい。このあらがい難い衝動に突き動かされた美幸は、岡宮孝子の引き取りを即断、独断した。

 あまりの拙速さに、言い出した側の隆行が懸念を示せば、

「時間がない、って言ったのは、あなたでしょう!」

 一喝して沈黙させると、早速、美幸は夫を引き連れて福岡に飛んだ。自宅で二人を迎えた響子は、もはや幽鬼の様相を呈していた。元がすこぶる付きの美貌の人だけに悲愴の眺めであった。娘のために、ここまで。情景を思い起こすたび、烈母への畏敬がよみがえる。美幸は、必ず孝子を立派に育ててみせる、と涙ながらに宣誓していた。

 そこに小学校を引けた孝子が帰宅した。響子に二人の紹介を受けるや、一目で母譲りとわかる顔立ちが、神宮寺夫妻に向けられた。双眸からは止めどなく涙があふれていた。

「神宮寺さま。岡宮孝子と申します。これよりよろしくお願いいたします」

 孝子は神宮寺家が引き受ける、と定まった。次は、響子の番だ。緩和ケアを勧めた美幸に、彼女は敢然と首を横に振ったのだ。

「お金の心配なら、いりません。私たちが出します」

「そのお金は、孝子に使ってください」

 烈母は、どこまでも烈母だった。応酬のしまいには、立ち会っていた自称の主治医が叫んだものだ。

「俺が出す。俺が出すよ。だから、うちにかかってくれ。俺の金が孝子ちゃんに行くことはないんだ。俺の手向けを受けてくれよ」

「確かに、ね」

 緩和ケアを受けた響子の最期は、誠に穏やかなものであった。いまわの際に響子が浮かべた微笑は、安堵の感情の発露、と美幸は見たのだが……。

 こうして岡宮孝子は神宮寺家にやってきた。響子に鍛えられた孝子の立ち居振る舞いは、なまなかではなかった。娘たちは直ちに掌握され、大人たちも順に陥落していった。中でも、陥落の度合いが最も激しかったのは、誰あろう美幸だ。自らの丹精に、抜かりなく応じる養女は、養母をとりこした。独身貴族を標榜しつつあった妹に、孝子を養女としてもらい受けたい、と望まれれば、あべこべに自分が孝子を養女にした。元々、欲求はあったのだ。孝子の岡宮姓を尊重するべきでは、と自重していたが、妹に、その配慮がないのなら、こちらも捨てる。立派な総領娘がいるのに養女なんて、と至極まっとうな批判も馬耳東風だった。

 それほどぞっこんほれ込んだ養女である。響子の遺書を読んでも、孝子に抱く親愛の情は全く揺るぎない。かの烈母に対する畏敬の念も、変わらない。乾坤一擲の大勝負を、よくも成し遂げられた、と称賛を送りたくさえなっている。……さすがに苦笑交じりに、ではあったが。

 なお、美幸は、響子の遺書の存在を、隆行にも明かしていなかった。よって、孝子が、突然、倒れ、突然、神宮寺家を出ていった理由は、美幸以外には釈然としないままになっているのだ。一応、出ていく理由は、養女の身で大学受験に失敗した責を感じて、と定めてはあった。ただ、失敗の原因となった卒倒、入院には一言も触れていないため、どこまで信じられているやら。おそらく、誰も信じていないだろうが、それでいい。孝子にも、語るな、と厳命してある。いざともなれば隆行に泥をかぶってもらえばいい。誰でも、死んだと思っていた父が生きていた、となれば、おどろくだろう。

 孝子の母、かの烈母の大芝居を明らかにするわけにはいくまい。自分は気にならなかったが、叔母が、父が、妹が、どう採るかは、わからない。お人好しで、泣き落としの通じる、甘っちょろいやつ、と評された男だって、だ。孝子のためにならないことはしない。それに、愛しい養女との秘密の共有は、美幸にとって、楽しみ、ですらある。

 養母が、養女に抱く存念としては、そんなところであった。

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