第八四話 逆上がりのできた日(一三)
孝子が、この日、隆行と伴っていこうと考えたのは、年長の友人たちと共に訪れた早水瀬ダムだった。ダム湖の絶景と、ほとりにあるドライブインで食べた豆腐田楽の食感を気に入っていたのだ。それに、秋雨の不安があった前回とは異なり、ドライブにはもってこいの秋晴れの候だ。単純に車を走らせたかった、という狙いも、大いにある。
「早水瀬ダム?」
「うん。よくわかったね」
「レンタカーで、美幸と来たことがあるよ」
道順で察した隆行のせりふだった。
「デート?」
「そう。紅葉を見に行ったんだけど、寒くて、すぐに帰ったね」
「どじ」
喉の奥で笑い、次に、大きなため息だ。
「……おっかない、って言った孝子だし、もしかしたら、わかってくれるかもだけど」
「うん」
「とんでもなく気が強くてね」
孝子の亡母、岡宮響子の話だ。
「口げんかは、本当にしょっちゅうだった。私がこっちに行ったのが気に入らなかったみたいで、大学に入ってからは帰省するたびに絡んでくるんで、だんだん……」
娘としては全て、あの母なら、なので言葉もない。
「関東に行きたかったんだよね。福岡も、西日本のじゃ都会のほうだけど、やっぱり、関東には逆立ちしたってかなわない」
望んで関東に来たわけではない孝子である。発する言葉もなく無言が続く。
「そんなときに美幸と会ってね。……孝子、内緒だよ」
「何が?」
「昔の美幸は、声が小さくて、かわいかった」
「密告だ」
「駄目。前に美咲ちゃんも言ってたけど、本当におとなしい子だったんだ。お嬢さまだよ。お嬢さま。ああ、この子、いいなあ、って」
「福岡のあばずれとは、そのまま自然消滅?」
「こら。自分のお母さんのことを、なんて言い草だい」
「娘の私の目にも、そう映るぐらい強烈だったの。あのおばさんは」
「うん、まあ……。で、孝子が、九歳のときか。陽人が連絡してきて。響子が重病ってだけでも驚いたのに、私との間に生まれた娘がいて、その子が路頭に迷う、なんとかしろ、って言われて、もう」
「よく、私を引き取ろう、なんて思ったね。生まれて、一〇年近くも知らなかったんだし。赤の他人でしょう」
「なんだかんだ言ったって好き合った人だもの。響子の最期の願い。響子との間に生まれた娘。絶対に助けたい、って思ったよ。……あと、陽人が、えらいけんまくでね。こんな話、されたって孝子も困ると思うけど、あいつ、もしかしたら、響子のことが好きだったんじゃないかな」
「……春に、私、福岡に行ったでしょう?」
「うん」
「その時にお話をしていて、私も思った。一人じゃなかったら、私を引き受けたかった、っておっしゃるのを聞いて」
「そう、か……」
続いた沈黙は長いものとなった。高速を下り、ダム湖のほとりのドライブインに到着しても、隆行は沈思したままだ。
ドライブインでは豆腐田楽のコーナーの店員が、みそを塗るな、という変わった注文をした美貌の持ち主を記憶していた。前回ほど説明に手間を取られず、孝子は自分の分のみそなしと、隆行の分のみそ付きを買い求め、外で待つ父親の下に戻る。
かりかりに焼けた豆腐田楽をかじりながら、二人はダム湖の湖面を眺めていた。
「……孝子」
ぽつりと隆行がつぶやいた。
「うん」
「陽人には悪いが、そうならなくてよかった、と思う」
「……そう」
孝子は隆行の手を握った。
「お父さん。一周しようか」
「いいよ」
歩きだした二人は、しかし、水辺の風にさらされ、かつての川島隆行と神宮寺美幸と同様に、すぐに車へと撤退したのだった。間の抜けた経験も、娘と父親にとっては貴重な思い出の一ページとなるのである。




