第八三話 逆上がりのできた日(一二)
至福の夜の中に、孝子はいる。金曜日、午後八時すぎの海の見える丘だ。麻弥はアルバイト、春菜は部活で、共に不在であった。自室の机でノートパソコンに映し出しているのは、オールディーズ一歩手前といったあたりのミュージック・ビデオだ。契約している音楽配信サービスの検索機能を使って、ひたすら見まくっている。
孝子の洋楽好きは亡母の影響だ。亡母が最も愛した米国人歌手、ケイト・アンダーソンを、同じく孝子も最も愛し、亡母が好んだケイトを含む一歩手前を、孝子もまた好んだ。容姿だけでなく、性質、趣味までも鏡写しの親子だった。
なじみの曲は口ずさみ、初めての曲は聞き入って、などとやっているうち、麻弥と春菜を迎えに行く時間になっていた。ノートパソコンの電源を切り、机上の充電スタンドからスマートフォンを手に取った。
見ると、画面にメッセージの着信通知がある。神宮寺隆行だ。着信のあった午後七時二七分は、ちょうど鑑賞に夢中になっていたころか。マナーモードの振動程度では、孝子の集中を阻害し得なかったわけである。はて。何を言ってきたのだろう。
「キョウコ?」
孝子は噴き出していた。ばれた。これである。どこで知ったのだろう。メッセージがクエスチョンマークで終わっている点をみても、養母経由は考えにくい。そもそも、神宮寺美幸は夫であっても、岡宮鏡子を話題には上せまい。映画の公開が迫る中で、なんらかの宣伝を目にした、耳にした、。それにしても、判断材料は声と名前の二つ、しかないはずだが……。やがて、じんわりと浮かび上がった笑顔の後、孝子は同居人たちを迎えに家を出る。今日の時点では、メッセージは無視だった。
翌土曜日の昼すぎ、ふらりと孝子は鶴ヶ丘に現れた。予告なしの来訪に驚く家族には、ちょっとおじさまに車の話があって、という説明だ。孝子の愛車、ウェスタは使用者が孝子、所有者が隆行と届け出されている。
一階に隆行の姿はなかった。休日の隆行の起床は遅い。朝と昼の二食と睡眠時間とをはかりに掛けて、後者を優先するのが常である。舞浜大学病院の勤務医として、多忙の日々を送っているためだ。孝子は二階の神宮寺夫妻の寝室に向かった。二度、三度とノックしても反応はない。普段なら引き下がるところだが、今日の孝子はどうしても隆行と話がしたかった。もちろん、車の話ではなくて、だ。
押し入ると、室内は薄暗い。ベッドの上には、掛け布団にくるまって眠りこけている養父にして実父の姿がある。その上に孝子は馬乗りになった。
「……那美。重い。どきなさい」
目覚めた隆行は、末の娘と勘違いしているようだ。確かに、美幸と静は、こんな狼藉には及ぶまい。養女としての孝子も、隆行の頭には入っていないだろう。残るは那美、となる。
「いつまで寝てる。起きろー」
跳ね起きた隆行の勢いで、孝子はベッドから転がり落ちそうになっている。
「もう。危ないじゃない」
「ああ。ごめん、ごめん。孝子だったのか。驚いた」
「驚いたのは、こっち」
体勢を立て直して、孝子はベッドの端に座る。
「……どうして、わかったの?」
「え……? どうして、って。孝子の声だったし、それに、名前。あの声で、あの名前なら、間違うはずがない」
「ふうん。どこで、聞いたの?」
「夕方のテレビで。出演者が宣伝してたのかな。その後ろで流れてた」
「……まだ、眠い?」
「いや。覚めたよ」
孝子は立ち上がり、カーテンを開けて、室内に外光を呼び込む。目をしばたたかせながら、隆行は乱れた頭髪をなで付けている。
「今日は、車の話があって、ってことにしてる」
「車? 何か、あったの?」
「ってことに、してる」
「ん……?」
困惑の表情に、孝子はそっと顔を寄せた。
「知られたくなかったから、おばさまだけに相談して、他には内緒にしていただいたんだけど。でも、一番にばれたのがお父さんだったのは、ちょっとうれしい」
隆行の顔に笑みが浮かぶ。
「それは、そうさ。親子だもの」
「うん。そう思ってた。だから、今日は親子の会話がしたくて、来たの」
「ああ。それで、ってことか。わかった」
隆行は立ち上がると、パジャマの上着を脱ぎ、衣装籠に放る。
「メンテナンスなんかが割引になるクレジットカードを勧められてるけど、孝子の一存じゃ、って話にしよう」
「悪い男。そんなうそを、すぐに思い付いて」
「買うときに、勧められたんだよ。何枚もあっても仕方ない、って断ったけどね」
「じゃあ、下で待ってる」
リビングで美幸の機嫌伺いをしていると、追って隆行がやってきた。ホワイトのパンツに、ネービーのニットという組み合わせだ。
「おじさん。上に何か羽織ったほうが、年相応じゃない?」
容赦のない寸評は美幸だ。
「お嬢さまのお供をするのに、あまり落ち着いてるのも、どうかと思ってね」
「どちらに?」
「海の見える丘のワタナベに。カードを勧められてるらしいんで、話を聞いてくる」
「そう。行ってらっしゃい」
そばで話を聞いていた静と那美が、同行の名乗りを上げるが、これは美幸が押さえ込んでしまう。
「あなたたちは試験週間でしょう。勉強しなさい」
美幸の見送りを受けて、孝子のウェスタは神宮寺家の西門を出ていく。むくれた妹たちは家の中だ。
「じゃあ、後で」
窓を開けた隆行の、美幸への一言である。
「後で、美幸には話すけど、いいよね」
「え……?」
少し走ったところで、隆行が口を開いた。
「二人で話がある、って気付いたみたい。静と那美を押さえてくれたし」
「あ、それで……」
養母らしくない、頭ごなしの物言いだな、とは孝子も思っていたのだが。
「以心伝心、すてきだね。あのおばさまに出会ったなら、おっかないおばさんを捨てたのも、わかる気がする。……捨てたの?」
そんな親子の会話をするつもりで来たわけではなかったが、ふと問うてみたくなった。急に切り込まれて、隆行は絶句である。切り込んだ側は、カーステレオから流れてくる洋楽に合わせて鼻歌を歌っている。
かなりの時間をかけて、自らと、かつての恋人との互いの所業を精査したであろう隆行の、絞り出してきた答えは、これだった。
「……自然消滅、かな」




