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未知標  作者: 一族
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第八二話 逆上がりのできた日(一一)

 ぼうっとした感じの人、と評された男は、孝子たちの会合の翌日、舞浜市幸区の自宅にいた。オフの日には選手寮を出て、必ず自宅に戻るのは奥村紳一郎の習慣だった。母子家庭に育った彼の、母親に対する崇敬の念は極めて強い。ユースチーム時代の彼が、チームの提携校に通わず、選手寮にも入らず、自宅から通学できる鶴ヶ丘高校に進学したのは、ひとえに母親のそばにいたい、故であった。新人選手に入寮が義務付けられていなければ、彼は今でも自宅通いを続けていただろう。

 母親の心尽くしの手料理を平らげた後、奥村は自室に向かった。書棚をあさって一冊の本を取り出す。舞浜市立鶴ヶ丘高等学校の卒業アルバムだ。三年三組。三年生時に所属したクラスのページを開く。……あった。先般のサッカー全日本選手権で、得点を取った後に、彼を挑発してきた男の顔写真だ。

 舞浜市立大学との試合前、対戦相手の、鶴ヶ丘高校の同級生だった、という男に声を掛けられた。全く記憶になかったので、曖昧に受け答えしていたら、怒らせてしまったらしい。奥村は人を覚えるのが苦手だ。緊密な関係にある場合は別として、大抵の人の、名も、プロフィールも、すぐに忘れる。チームにも怪しい者が、両手の指に余るほどいる。申し訳ないことをした、とは思うのだが、いくら考えても、あの男を思い出せない。そのために開いた卒業アルバムだった。

 佐伯達也は確かに同級生だった。しかし、彼自身も予想していたとおり、卒業アルバムという事実を見ても思い出せない。奥村は、彼の同級生に、胸中で頭を下げていた。

 一方で、忘れ得ぬ相手もいる。五十音順で並んだ写真の佐伯の次は神宮寺孝子だ。黒々とした長髪に包まれた色白の顔は、奥村のほろ苦い思い出となっている。

 佐伯が奥村をスーパースターと表現したのは、高校在学中にプロリーグへの出場を果たした、その卓越した能力と、持って生まれた雄麗さによる。国際結婚で訪日後、妻と子を残してさっさと先立った奥村の父親はドイツの出身だ。彼の容貌には、父方の祖国の血が色濃く出ている。一九〇近い長身も、血の影響が大きいだろう。

 当然、奥村は異性からのすさまじい好意にさらされた。だが、彼はサッカー選手として大成して、母親に楽をさせる、という確固たる目標を持って、日々を生きていた。母親以外の女性にかかずらっている時間はなかったのだ。

 そんな男が神宮寺孝子にほれた。まず、容姿に目を引かれた。次に、クラスメートの、なんとか、という少女との一連の交渉での振る舞いに心を奪われた。……奥村が失念している、少女なんとか、は当時の島津基佳、現在の小早川基佳である。

 しかし、奥村の恋路は、長く、険しいものとなった。課外活動の多忙さに加え、人並み以上にシャイな性格だった彼は、孝子との接点をなかなか持つことができなかったのである。好機は二年時の冬に訪れた。放課後の校門前で、母親の迎えの車を待つ奥村の目に入ったのは、車道を挟んだ向こうの歩道をとぼとぼと歩く、孝子といつも一緒にいる長身の少女だった。……奥村が失念している長身の少女は正村麻弥である。

 麻弥は、この日、風邪で病欠していた。なかなか熱が下がらないので神宮寺医院を受診しての帰りだった。顔には大きなマスクを着けており、時折、こんこん、とせき込んでいる。奥村は車道を渡ると長身の少女に声を掛けた。名前が出てこなかったので、こんにちは、というあいさつで入る。

「……ああ。奥村」

「お加減は、どうですか」

「あんまり。今、注射を打たれてきた」

 言って、長身の少女は来た道を振り返り、顎で神宮寺医院の看板を示した。

「あそこは、神宮寺さんの……?」

「うん。正確には、あれの叔母さんだけど」

 孝子の名前を出したところで、奥村は、彼としては異例の思い切りで、長身の少女に孝子へのとりなしを依頼したのだった。

「……いいよ。話してみる」

「ありがとう……!」

「じゃ、これで。まずは治さないと」

「お大事に」

 やっと、つかんだチャンスは、しかし、翌日にはついえてしまう。手招きされて、同行した先で、孝子の返答は、こうだ。

「人と一緒は苦痛」

 あまりのものすさまじさに、奥村は固形化していた。尻目に、孝子は続ける。いわく、実生活に困難が生じるくらいにアレルギーと味覚障害がひどい。気遣いを、するのも、されるのも、嫌なので、申し訳ないが断らせてもらう。孝子が去った後も、奥村は長く、その場に立ち尽くしていた……。

 同日の昼休憩。食欲も湧かず、椅子に座りっ放しだった奥村を、また、孝子が手招きだった。近寄ると、孝子は弁当箱から卵焼きを箸でつまみ、奥村の口元に突き出してくる。

「あーん」

 幸い、例の長身の少女が間近で眺めていただけで、他に目撃者はなかった。鶴ヶ丘高校随一の美女と美男の異常接近は、しずしずと進行したのである。

 卵焼きを口にした奥村は観念した。とてもではないが食べてられないような薄味と、彼を見つめる愁いを帯びた瞳と、に。

「な? 言ったとおりだろ?」程度の心持ちの笑い顔を、愁いの表情とみたのは、つまり、孝子の光り輝く部分しか知らない奥村の、幸せな錯覚だった、と評してもいいだろう。神宮寺孝子とは、そんなに殊勝な女ではないのである。

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