第八一話 逆上がりのできた日(一〇)
後期開始の喧噪が去ったころ、孝子は親友の小早川基佳と休日を過ごしていた。おまけの佐伯も隣に控えている。孝子と会うときの基佳は、いつも高揚している。このときも、右手に孝子、左手に佐伯、それぞれの手を握って、へらへらと振り回していた。
根幹にあるのは基佳の孝子に対する心酔だった。そして、その根幹を取り巻いているのは、孝子の無精だ。両者は、主にスマートフォンを介しての、いくつかの交流手段を持っていて、そのいずれもで孝子の反応は極めて鈍い。
「大事な話だったら、ちゃんと返すよ」
恐る恐る、といった様子で、連絡は迷惑だろうか、と問うた基佳への、孝子の返しである。確かに、ちょっとしたおしゃべりが大事なのか、と言われると大方は返答に窮するだろうが……。こうして重要案件以外の連絡を封じられてしまった基佳は、会うごとに、ここぞとばかり、親友との、ちょっとした、交流を満喫するのであった。
集合直後のランチを経て、昼下がりに三人が落ち着いたのは喫茶「まひかぜ」だ。孝子は事前に営業を確認した上で予約を入れていた。
「もしかして、市立の佐伯君?」
三人の会話が一段落したあたりで、岩城の一言だった。ここまで老店主は、最初に孝子と二言、三言と会話して以降は、ひたすら黙然としていたのだ。
「岩城さん。佐伯君をご存じなんですか?」
「うん。この間のF.C.との試合を見ててね。二点、お見事でした」
「ありがとうございます」
舞浜F.C.と市立の試合といえば、麻弥が観戦していた、あの試合だろう。そういえば、佐伯が奥村紳一郎に対して、怒っていたとか、なんとか。
「岩城さんは、サッカー、お好きなんですか?」
「実は、僕、OBさ」
「市立の?」
「F.C.の」
「え。岩城さん、プロだったんですか!?」
麻弥のことも、佐伯のことも、奥村のことも、全て吹き飛んでいた。
「いやいや。僕のときは、まだ、実業団だったよ。チームがプロになったのは、僕がチームを退いて、一〇年以上たって、だね。はい。割り込んじゃって、ごめんね」
「いえ。今度、ゆっくり聞かせてください。……そういえば、佐伯君って、あの試合で、なんだか怒ってなかった?」
「あ。神宮寺さん、試合、見てくれてたの?」
「せっかく佐伯君が出るんだし。でも、家事をしながらで、飛ばし飛ばしだけどね。得点シーンとかは、ことごとく見逃してる」
得点シーンどころか、一秒たりとも見ていないくせに、孝子もよく言う。
「そうだったの。ありがとう」
何も知らない佐伯は頭を下げた。続いて、フッフ、と苦笑いを浮かべる。
「あれはね……」
「こんな感じ、だったよね」
麻弥のまねをして孝子は、握り拳を突き出した。
「そうそう。まあ、冷静になってみれば、あっちはスーパースターで、こっちはその他大勢だし、わからなくもないけど、ね」
試合前のことだ。佐伯は奥村に声を掛けた。鶴ヶ丘高校男子サッカー部出身の佐伯と、舞浜F.C.ユース出身の奥村に、サッカー上の接点は皆無だったが、三年間、同じクラスのよしみがある。名乗れば思い出すだろう。そう思っていたのだ。
ところが、短い会話の最中、奥村の顔からは、ついにけげんな表情が消えなかった。この事実は、佐伯の感情をマイナス方向に、大いに刺激した。
「それで、むかっ腹を立てて、大暴れしたの?」
「そんな感じ。さすがに、全く、覚えてないっていうのは失礼だと思わない? よしんば覚えてなくても、あそこまで顔に出すなよ、って」
「奥村君、割と、えげつない人って聞くし。たっちゃん、災難だったね」
「そうなの?」
「うん。ファンサービスとか、プロ失格レベルで最悪、って話」
「へえ。私の覚えている奥村君って、なんだか、ぼうっとした感じの人なんだけど。意外だね。まあ、その話はいいよ。この中の誰も、今後、深く関わる相手でもないんだし」
「うん、うん。本当に」
ここでサッカーに関する話題は収束し、三人は別の話題へと移っていった。この日、最後の予定であるショッピングについての打ち合わせだ。ぼちぼち店頭に冬物が並び始める時分である。肩を並べて、それをあさりに行く。