第八〇話 逆上がりのできた日(九)
「……寝てるの?」
味見の小皿を手にしたまま、孝子はつぶやいた。対面キッチンのカウンターに置いた時計は「20:45」を表示している。九月も第三週に入り、大学の後期が始まっていた。孝子たちの生活の、あらゆる開始時間も、夏季休暇仕様から平常仕様に移行した。
部活を終えた春菜を迎えに行く時間も、そのうちの一つだ。夏季休暇中は正午に始まって夕方まで、となっていた舞浜大学女子バスケットボール部の活動時間は、夕方に始まって午後九時まで、と変わっている。海の見える丘を出発して、舞浜大学千鶴キャンパスまでの距離、この時間の道路の混み具合、春菜が後片付けと着替えを終えて駐車場に姿を現すまでの間隔――以上を勘案したとき、午後八時四五分は車を出す最良のころ合いなのだが。今日の迎えの当番は麻弥である。
煮しめの火を止め、孝子は麻弥の部屋の扉をノックした。
「……入ってー」
声がした。孝子は扉を開けて室内に入った。麻弥は腕組みをして、机の上のノートパソコンを凝視している。極小の音量ながら、歓声のようなものが聞こえる。
「麻弥ちゃん。時間」
「あ、そんな時間か。もう少しで終わる。ちょっと待って」
「何を見てるの?」
「サッカーの全日本選手権」
「興味あったっけ?」
「ないよ」
「じゃあ、なんで」
「知ってる顔もいることだし」
「そう」
途切れかかった会話をつないだのは、麻弥の次の言葉だった。
「市立とF.C.の試合」
市立は、「舞浜市立大学」の舞浜市民同士でのみ通じる略称だ。F.C.は、舞浜市を本拠とするプロサッカーチーム「舞浜F.C.」の、これまた、舞浜市民同士でのみ通じる略称だ
「ああ、佐伯君だ」
孝子の友人、小早川基佳の彼氏である佐伯達也は、舞浜市立大学のサッカー部に所属している。
「佐伯君、出てるの?」
「出てる。あと、一人」
「誰か、いたっけ」
「奥村」
「そういえば、F.C.だったね」
奥村こと奥村紳一郎は、舞浜F.C.に所属するプロサッカー選手だ。そして、孝子たちと奥村は、鶴ヶ丘高校時代の同級生である。
「覚えててやれよ」
「どうして」
「どうして、って……。ああ、そういえば、佐伯が、なんか怒ってるみたいだった」
言い返しかけて、無益を悟ったであろう麻弥の素早い転換だった。
「怒ってた? あの人でも、怒ることって、あるんだ。いつも、にこにこしてる印象しかないんだけど」
「奥村に向かって、見たか、このやろう、みたいな感じで」
顔をしかめ、握り拳を突き出したのは、佐伯のまねだろう。
「何かあったの?」
「さあ……。ずっと見てたけど、特に接触とかはなかったような」
そうこうしている間に試合は終わったようだ。ノートパソコンの電源を切って、麻弥は立ち上がった。
「もしかしたら勝つかな、とか思ったけど。土壇場になって、プロが意地を見せたな」
「佐伯君、負けちゃったか」
「うん。でも、あいつ、二点取ったぞ。知らなかったけど、めちゃくちゃうまいんだな。よし。行ってくる」
「行ってらっしゃい」
麻弥を見送り、煮しめに再び火を入れるため、キッチンに戻る。この短い間で、孝子は佐伯と奥村のことを意識の外に飛ばしていた。スポーツへの関心がないことに加えて、縁の薄い相手に冷淡な孝子らしい、といえば、らしい。麻弥が一人で観戦していたのも、親友の特性を理解しているためだ。
佐伯は、友人というワンクッションを挟まなければ交流のない存在だ。
奥村は、かつて思いを寄せられた相手、という過去の存在でしかない。
等しく、ほぼ他人、と見なしていい。ほぼ他人について、思いを巡らすことも、また、とどめることも、必要はないだろう。神宮寺孝子とは、そういうものの考え方をする女だった。




