第七九話 逆上がりのできた日(八)
市街地を抜けた車は高速道路に入った。
「そういえば」
助手席の涼子が、首を少し後ろに向けて、孝子と斯波を等分に見る形を取った。
「この前の、剣崎さん、だけど」
剣崎の名に孝子は体を硬くした。養母以外にはひた隠しにしたほどだ。もちろん、涼子にも、斯波にも、レコーディングうんぬんの話はしていない。しかし、剣崎発、斯波を経由して涼子へ、と伝わっている可能性もあった。先方が触れてこない限り、表明は避けるつもりだが……。平静を装って、孝子は会話に耳を傾ける。
「斯波さん、どういう関係なの? 一応、あの方、有名人ですよね?」
「高校の先輩と後輩。あの人は僕より二つ上」
「斯波さんも音楽やってたの?」
「いいや。あの人は、高校はサッカー部だったし、僕は、放課後と同時に消えてたんで、学校内の付き合いは、一切、なかったよ」
「ええ……?」
「バイトマシーンになってたの。あの人ともバイト先で知り合ったんだ」
ここまで孝子に関する話題はない。どうやら涼子の話は、ふと思い出した、というだけで、特に孝子のレコーディングうんぬんに由来したものではなかったようだ。考えてみれば、他言無用は契約で徹底されていたはずである。友人といえど剣崎は斯波にも漏らしてはいまい。
「バイトマシーンって、何か欲しいものでもあったんですか?」
一息ついた孝子も会話に加わる。
「いや。進学したかったから、学費を貯めてたんだ」
孝子と涼子は静止した。
「大学の特待生制度に引っ掛かったのは助かったね。おかげで貯めていた分を生活費に回せて、大学でもバイトマシーンにならなくて済んだんだ」
「斯波さんって特待生制度で入ったの!? あれって、学部に一人か二人ぐらいでしょう……?」
「ない袖は振れない」
その次元まで困窮しているとなれば、経済的な後ろ盾が、ほぼない環境だったのだろう。
「それで、剣崎さんだけど、僕が大学二年だったかな。久しぶりに会ったんだ」
すっかり色を失って、黙りこくってしまった女性陣を尻目に、斯波は淡々と続ける。
「あの人、二回も留年してて、いつの間にか同級生だな、って笑ってるの。髪とか染めちゃって、ちゃらちゃらした格好して。で、お前は何してるの、って聞かれて。お金なくて四苦八苦してます、って。後で言われたんだけど、かなり顔に出てたらしいね、僕。まあ、正直、金のある人はいいな、って思ったのは事実だけど」
再会は、斯波にとっては、この時点では、不愉快なものとなったが、一方の当事者にとっては、衝撃的なものとなったらしい。髪とか染めて、ちゃらちゃらした格好をしていた男は、かつてのバイト仲間の苦学力行ぶりと自堕落なわが身とを引き比べ、大いに恥じ入ったのだ。
「その時のことが剣崎さんを一念発起させたみたいで。あの人、大学を中退して、音楽を本格的に始めたんだ。で、今に至る、と」
「そんなことが……」
「うん。あったの。結局は本人次第なんだし、きっかけなんて大したものじゃないと思うんだけどね。でも、あの人は、そう思わないみたい」
剣崎が何かにつけて斯波を厚遇してくれる、というのだろう。
「トリニティのショールームの近くでお会いしたときも、剣崎さんと?」
「そう。高そうな仕出しを取ってくれてね。取り込み中の仕事がうまくいってない、とかで、ぶつぶつ言ってたっけか。その後、どうなったのかな」
映画『昨日達』に関する愚痴に決まっているが、孝子は無言である。
「……斯波さんって、実はすごい人だったのね」
涼子の、感に堪えない、といったつぶやきだ。
「見直した?」
「ええ」
「斯波さん。もっとすごいところをアピールして、涼ちゃんさんのハートをわしづかみにするんです」
「小娘」
「うん。もしかしたら、もっと前に、僕は特待生だぞ、って言っておけば、よかったのかな」
「そうですよ。できる男、すてき、ぽっ、ってなってましたよ」
「斯波さん、止めて。この小娘とは並び立たない宿命みたい」
ここで斯波が、本当にウインカーを点灯させたので、二人はぎょっとした。
「斯波さん! ここ、高速よ!?」
「サービスエリア」
天の配剤ともいうべきタイミングでの、第一の休憩地点への到着であった。大笑した二人が戦端を開かなかったのは、言うまでもない。誠に結構である。




