第七話 フェスティバル・プレリュード(七)
遠出は考えていなかったらしく、美幸は少し走らせた先にあるホームセンターの駐車場に車をとめた。後部座席に置いていたハンドバッグを手繰り寄せた美幸は、中に手を差し入れ、あの封書を取り出した。
「ごめんなさい。読んじゃった」
封書を渡された孝子は、目の前が漆黒の闇に閉ざされた思いだった。今の今まで自分が卒倒した後の封書の行方を、意識の外に置いていたのだ。大恩ある養親に対して、お目にかけるのもはばかられる、まさに「汚物」を取り落としていたとは。
「大丈夫よ。誰にも見せてない」
美幸の言葉は少しも孝子の慰めにはならない。母のお芝居が知られたのは、この際、どうでもよかった。問題は、自分が養父の隠し子に当たる存在と、最も知られてはいけない人に知られてしまったことだ。まさかに隆行も自分との関係を明かしてはいまい。彼は婿なのだ。美幸が承認するはずがない。大恩ある養家の平穏が、これで乱れたりしたら、孝子には立つ瀬がなくなる。いや、元々、ないようなものなので、残るは沈むだけになってしまう。
「申し訳、ありません」
「気にしないで、って言っても、気にしちゃうよね。倒れちゃうぐらいだし」
「あ。いえ」
「うん?」
「私が、あの、おじさまの」
「ああ」
美幸には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ひっくり返るにしても、この封書だけは、どこかにやった後にするべきだった。心楽しくない日々を送らせてしまい、おわびのしようもないが、願わくば、自分が神宮寺家を去った後は、気持ちを鎮めて、私の養父にして実父である人と、幸せな家庭を築いていってほしい。かわいい義妹たちのためにも。謹んで、お願いする。
言い終わった瞬間に、孝子は思っていた。なぜ、この人は、こんな、うれしそうな顔をしているのか、と。美幸は、笑いをこらえるのに懸命、という風情だ。罵声の一つだって、飛び出しておかしくない状況ではないのか。その答えが判明するのは、三〇分ほど後となった。
「わかった、わかった。そっち、ね。今は、その話は、置いておきましょう。後で。後で。それよりも、続き。気にしないで、っていうのは、私の本心だよ。そりゃあ、少しは驚いたけど、怒ったり、恨んだり、っていうのは、ないよ。なぜって、響子さんのおかげで、私たちは孝子さんと出会えたんだからね」
養母の言葉は、孝子の心をえぐる。いっそなじってほしかった。母は詐欺師だ。自分は詐欺師の娘だ。どちらも温情を受ける資格などないのだ。
「自分のお母さんを、そんなふうに言ってはいけないわ。……私、ね。響子さんの気持ちが、わかる気がするんだ。私も母だもの。私が響子さんと同じ立場になっていたら、なりふり構わない。子供たちのために、最善を尽くす」
「人をだましてでも、ですか」
「人をだましてでも、です」
断固とした返答に孝子は言葉を失った。侵し難い大山に行く手を阻まれた感があった。
五分か、一〇分か、短くはなく、さりとて長くもない時間が過ぎた。
「孝子さん」
「は、い」
「さっきの、うちを出る、って話、確認しておきたいんだけど、隆行さんと私に、申し訳が立たない、みたいな考えで、いいのかな? もしかして、響子さんの言ったとおり、隆行さんと縁を切るため?」
孝子は後者を一言の下に否定した。違う。私は母の没義道を恥じているだけだ。あんな見苦しい書き付けを残すぐらいだったら、金はないけど、一人でなんとか生きろ、と言われたほうが、どんなにましだったか。母がやったのは托卵だ。養父にして実父である人には、なんの恨みもない。むしろ、合わせる顔がないので出ていこうとしているのだ。
美幸の顔がゆがんだ。後で聞けば、詐欺師ときて、托卵ときた。孝子の思い詰めっぷりが伝わって、手強い、と慨嘆したそうな。
再び、短くはなく、さりとて長くもない時間が過ぎていった。
「今の孝子さんは、少し頭に血が上っているんだと思うな。少し時間を置きませんか。私が孝子さんの住まいを探します。そこで、よくよく考えてみて。あなたの、家族のことを。静も那美も泣いていたでしょう? 隆行さんも、美咲も、ひどかったわね。私だって、その封書の存在を知らなければ、どれだけ取り乱していたか。私たちはあなたを愛しています。あえて、嫌なものの言い方をしますけど、あなたの気持ちを優先するあまりに、私たちの気持ちをないがしろにしないでね」
美幸の広量を前にして、母の狭量が際立つ。穴があったら入りたい、とは、まさにこの状態だ。引いてはいけない。甘えてはいけない。孝子は謝絶を繰り返した。
「もう。頑固な子ね」
眉間にしわの美幸がにらんでくる。片頬笑んで、すごみはない。
「孝子さん」
「はい」
「切り札を、出してもいい?」
美幸が何を言っているのか、とっさには真意を測りかねた。切り札、とは……。
「多分、孝子さんは、隆行さんは婿だし、自分の出生を私に内緒で、うちに引き入れた、とでも考えたのでしょうね。さっきの言い方だと、そんな感じだったよね。違うよ。神宮寺家の婿に、そんな勝手はできません。あの人も、そんな勝手がまかり通るとは、考えていなかったでしょう。きちんと、自分の娘を引き取りたい、って私に説明してくれました。私は、知ってたよ。孝子さんが隆行さんの娘だ、って」
美幸が、ずいと迫った。
「最初に、謝られた時に、思ったの。そうか。この子が気にしてる、一番は、そこなのね、って。真っ先に、うちのことを心配するのね、って。そんな孝子さんなら、この切り札で、やっつけられてくれるでしょう?」
孝子は泣き笑いだった。見事にやっつけられた。同時に、悟っていた。自分の運命はずっと前から、柔らかく、温かなものに絡め取られていた、と。一体どれほどの人が、夫と別の女性との間に生まれた子、などという目障りなものを懐に抱き入れ、血縁の娘たちと同様に愛育できるだろうか。
再度の要請に、もう孝子は首を横に振らなかった。養母は養女の心情をおもんぱかり、意にかなう住まいを手配した。海の見える丘の平屋である。養女の身で大学受験に失敗した責を感じて、家を出ると言った孝子に、美幸が勉強に適した場を提供した、という体だ。海の見える丘には、舞浜大学への進学を決めていた正村麻弥が相棒として招かれた。一人暮らしに憧れるも、距離的に自宅通学を覚悟していた麻弥は即断したとか。美幸の調える全てを孝子は受け入れた。この人への崇敬を欠かしてはいけない、この人の大恩に背いてはいけない、と強く肝に銘じながら。