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未知標  作者: 一族
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第七八話 逆上がりのできた日(七)

『逆上がりのできた日』は、既に孝子の中では過去となった。喫茶「まひかぜ」での打ち上げ後は、剣崎とも会っていない。

「結構です」

 調整を施した『逆上がりのできた日』の試聴を依頼されたときに、電話口で孝子が放った言葉だ。自らが主体の行為ならば、最後まで責任を持って臨むべきだろう。しかし、今回は、剣崎からの依頼で始まったことだ。主体は剣崎、孝子は客体である。剣崎が作品の品質について、これだ、との評価を下したなら、そこで孝子の役目は完了のはずだった。

「実際のところ、私の意見や感想って必要ないと思います」

 自分の出番はレコーディングの当日まで、という見解に基づく冷めた言葉には、剣崎も首肯するしかなかったのだ。

 九月中旬、週が明けると大学の後期が始まるという週末の朝のこと。孝子は高台を下り切った麓にある神奈川ワタナベ海の見える丘店に向かっていた。斯波が車を買った。納車式と、その後のドライブにお呼ばれしたのである。

 涼子と斯波が図って車を買う、という動きは、意外に早く孝子の耳に伝わっていた。集中講義をいくつか組み込んでいたおかげで、夏季休暇中も北ショップに顔を出す機会があったのだ。自動車の所有に関心がなかっただけに、メーカーも車種もさっぱりだった二人を、海の見える丘店の蟹江と引き合わせたのは孝子だった。

 店舗の敷地に入ると、既に斯波と涼子、蟹江が並んで、談笑していた。

「おはようございます」

 孝子に気付いた三人からあいさつの声が飛ぶ。

「ペアルーック!」

「違う」

 ホワイトのトップスにベージュのボトムスという組み合わせが共通している涼子と斯波だった。

「事前に打ち合わせするわけにもいかないし、これは事故」

「照れなくてもいいのに」

「あなた、時々、私にすごく攻撃的よね」

「気のせいですよ。しかし、今日は雨じゃなくてよかったですね」

 孝子の言うとおり、九月も半ばとなれば秋雨、そして台風が気になる時季だ。実際、昨日まで舞浜は三日続けての雨天だったが、この日は一転して晴天に恵まれた。予報では、今日一日は持つ、という。

「日ごろの行いだね」

「私の」

「いや。僕の」

「その車ですか」

 二人の掛け合いを無視して、孝子は三人の背後にとめられている明るいブロンズカラーの車に近づいた。

「うん。僕の初めてのマイカー」

「なんて車ですか?」

 孝子の問いに、え、と涼子と斯波が止まった。

「どうしたんです?」

「神宮寺さんと同じ車、って聞いてたけど」

 三人の視線が蟹江に向いた。

「はい。同じウェスタですが、こちらはハイブリッドモデルで、神宮寺さんのお車はマニュアルモデルですから、若干、デザインが異なります。それで、お気付きにならなかったのではありませんか」

「やっぱり」

 と孝子はうなずいたものだが、後に車好きの麻弥に聞けば、両モデルの目に見える外見上の差異は、フロントグリルだけ、だそうである。孝子らしい節穴ぶりだった。

「さて。おそろいですので、始めましょう」

 納車式が始まった。といっても、花束の贈呈があるだけだが。滞りなく済むと、蟹江、店長以下スタッフ一同に見送られて、斯波のウェスタは海の見える丘店を出た。

「今日は、どちらに連れていっていただけるんですか?」

 車が流れに乗ったところで孝子は問うた。

早水瀬(はやみせ)ダムよ。湖畔にドライブインがあって、ちょっとした名所らしいの」

 助手席の涼子が答える。

「名前は聞いたことありますけど、行くのは初めてです」

「僕たちもだね。ダム湖の周回道路が絶景だってさ」

「いいですね。でも、初めてのドライブに、余計なおまけがいて、よかったんですか?」

「もちろん。孝ちゃんの橋渡しあってこその今日だしね。二人で車のカタログ見ながら、ああだこうだ、ってするの楽しかったよ」

「それはそれは。ごちそうさまです」

「どうかな、って挙げたオプションを、ことごとく却下されたり。白やら黒は汚れが目立つから金銀銅あたりにしておけ、って締め上げられたり……」

「うるさいなあ!」

 孝子はたまらず噴き出していた。どうやら、道中、愉快なものになりそうな気配だ。二人のやりとりを堪能すべく、孝子は助手席の背もたれに手を掛けて、前のめりとなっていた。

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