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未知標  作者: 一族
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第七七話 逆上がりのできた日(六)

 レコーディングは、早速、翌朝から開始された。場所は、東京都目堂(めどう)区にあるトリニティ本社スタジオだ。

 レコーディングなど、もちろん生まれて初めてという孝子のため、剣崎は種々の対策を講じていた。『昨日達』の関係者にはレコーディングの事実を秘匿した。陣中見舞いなど、されてはたまらない。普段、剣崎が組んでいる男性エンジニアチームではなく、女性エンジニアチームを起用した。気心の知れた彼らの蓬髪やひげ面を気にしたことは、剣崎はない。しかし、女の子の目で見れば、あれらは汚らしかろう、という考えだった。

 さらに、映画、スタジオ、共にスケジュールが厳しいさなかに、五日という時間をつくった。この事実を、剣崎は孝子に告げていない。全て、初心者歌手の平穏のためである。こうして音楽家は、万全を期したのだが……。

 岡宮鏡子の神宮寺孝子は、配慮を完全に無視して、初日の初回でレコーディングを完了させてしまう。録音を複数回にわたって行い、それらのうちの良品を抜粋して一曲に仕上げるのが一般的な中で、極めて異例だ。

「いや、すごかった。本当に。そして、俺の目の確かさだよ」

 その場の全員がうなずかざるを得なかった一発解答に対して、剣崎は称賛を惜しまなかった。五日どころか、まだ日の高いうちに、全てが終わったのだ。

 喝采は舞浜に戻っても続いている。孝子、付き添いの美幸、そして、剣崎は、喫茶「まひかぜ」にいた。「まひかぜ」を紹介したい、という孝子の主張を受け、剣崎が打ち上げの会場に設定したのである。

「ケイティーは本番に強いタイプだね」

「私はいつも強いですよ」

 乗り気ではなかった、とはいえ、激賞を受ければ孝子といえども、多少は得意になるというものだ。

「同じ歌を何度も歌いたくありませんでしたし」

「いや、恐れ入った」

 いつになく冗舌になっているのには、高ぶりの他に、もう一つ理由があった。今し方、剣崎が呼び掛けたニックネームの「ケイティー」だ。孝子の音楽活動を、絶対に周知となさぬよう義務付けられた音楽家が名付け親である。孝子の周囲で岡宮鏡子の名は出せぬ。同様に鏡子のときの孝子を本名で呼ぶこともできぬ。間違ったが最後、契約違反に問われる。普段からニックネームで呼んで慣れるしかなかった。苦悶の音楽家が絞り出してきたのが「ケイティー」だ。まず、若いのにケイト・アンダーソンのフォロワーという意外さを称して、と命名の理由を思い付いた。次いで、鏡子と孝子をラテン文字でつづった頭文字の「K」と「T」も「ケイティー」になる、と気付いた。

 けだし名案、と申し出てきた剣崎に、孝子、即諾だった。実に、いい。気に入った、と剣崎やエンジニアチームの面々に呼び掛けられるたびに、にやにやして、いい喜色なのである。鏡子と孝子は響子と孝子にもつながる。亡母と好きな歌手との名を内包したニックネームなんて、最高ではないか。

 カウンター内では美幸が岩城の指導で、例のアメリカ式ビスケットの生地を練っていた。養女が絶賛した味を身に付けるべく、励んでいるのだ。小じゃれた店の小じゃれた老店主という、把握していなかった養女の交際に目を丸くしていた美幸と、孝子の母親という女性の若く美しいことに、こちらも目を丸くしていた岩城の組み合わせは、なかなかの好相性だったらしい。笑顔の絶えない様子は、傍目にも好ましい。

「そういえば、ケイティー」

「はい」

 こちらはカウンターの歌手と音楽家の会話だ。

「『逆上がりのできた日』だけ、タイトルが日本語なのはどうしてだろう。何か、意味が?」

 孝子が剣崎に提出した三曲は、いずれも英語詞だった。『逆上がりのできた日』以外は楽曲名も英語である。

「私、別に英語が得意なわけでもないので、辞書とかテキストとかを調べながら書いてるんですけど、どうも、決まり切った表現がないみたいで」

「逆上がり、の?」

「はい。じゃあ、無理に説明的な言葉にするより、いっそ、日本語でいいか、ってなって。誰に聞かせるつもりもありませんでしたし」

 なるほど、と音楽家はうなずいた。

 作業を終えた美幸が孝子の隣に座った。岩城がねぎらいの意味を込めてコーヒーのカップを差し出す。

「うまくできてればいいんだけど」

「大丈夫でしょう。ケイティー。お母さんが上手に焼けるようになっても、たまには顔を見せてよ」

「母に、少しうそを教えたらよかったんですよ」

「……た、ケイティーさん。なんてことを言うの」

 あっさりと岩城もなじんだニックネームに美幸はなじんでいない。どうにも、つっかえる。

「ママさんは今までどおりに呼び掛けていただいて構いませんので」

 神宮寺姓を出さぬため、剣崎の美幸に対する呼び掛けも、これになっている。

「……はい。どうしても、すっと出てこなくて」

 トリニティのスタジオで、何度か、孝子の「たか」まで、口をついてしまっていた美幸であった。

「……でも、ここのビスケットには、こちらのコーヒーが、あってこそだわ」

 気を取り直して、といった口調で美幸が言った。

「はい」

「ですから、岩城さん。次は、コーヒーの淹れ方をお願いしますね」

「ええ。沸騰したての、熱々のお湯を一気に、注ぐんです」

 アドバイスを早速に取り入れた物言いに、聞いていた三人は大笑だった。

「たとえ、同じ腕前になれたとしても、こちらで飲むことの価値は揺らがないでしょう。人は、舌だけで味を判断するものではありません。すてきなお店に、すてきなご主人。孝子さんは、いいお店を教えてくれたわ」

 述懐のとおり、美幸は「まひかぜ」の熱心な愛好者となり、何度となく鉢合わせた正村麻弥を困惑させるのだが、それはまた別の話だ。

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