第七六話 逆上がりのできた日(五)
孝子が海の見える丘に戻ったのは、午後六時を過ぎたころだった。相良一能法律事務所での契約の後、鶴ヶ丘まで美幸を送り届けたことによる時間だ。既に部活を終えた春菜も戻っていて、玄関に迎えに出てきた。普段であれば、玄関まで、ということはめったにない。お帰り、ただいま、の行き来で完了だ。「恋する乙女」が動いたのか。
「ただいま。おはる、ごめんね。迎えに行けなくて」
「いえ。それは大丈夫、なんです、が。あの……」
不明瞭な語尾と、気遣わしげな表情は、なんらかの説明があったのだろう。
「何か、言ってた?」
扉の向こうのLDKに視線を向けながら、小声で問う。
「はい。この前の、剣崎さん、ですか。あの人の照会を、正村さん経由で伝えて、怒らせた、って。ストレートじゃないと駄目なのは、わかってたけど、つい、って」
「ふーん」
「剣崎にいいところを見せたくて、失敗した、だそうです」
麻弥が、言いにくいところまで明かしているあたりに、孝子は深くうなずいていた。
LDKに入ると、キッチンに立つ麻弥と視線が合った。
「お帰り……」
喉に引っ掛かったような、かすれた声だ。
「ただいま。着替えてくる」
「うん」
十分に反省している様子である。もう決まってしまったことでもある。責め立てる必要もあるまい、と孝子は断を下した。
「麻弥ちゃん、ちゃんと絵を描いてたんだね」
着替えを済ませ、LDKに顔を出したところで口にしたのは、軽い当て付けだった。
「絵……?」
「岩城さんの絵。スケッチは口実だと思ってたから、びっくりしたよ」
「なんだよ。口実って……」
「いとしの龍雅さまに会うための口実。もっとも、剣崎さん、忙しくて、全然、会えなかったみたいだけど。ざまを見ろ」
満面の、人の悪い笑みに、麻弥も表情を崩している。どちらかが示した糸口を、もう一方が察して間違わずにつかむ、というのは、結成一〇年目のコンビが、過去に何度もやってきたことだ。
「聞いて、おはる。私、この女に売られたのよ」
「それは悪女ですね」
「売ってない。捕まえられなかったんだよ。逆襲されて、瀕死になってた」
「でも、売ろうとはしたんですよね?」
「捕まえてれば、な」
「この悪女が」
孝子の体当たりに、麻弥も体当たりで応戦する。対等にぶつかると、身長でも体重でも劣る孝子が飛ばされるので、そこは麻弥の加減である。
「動画に撮って、剣崎さんにお見せしたら、幻滅されるでしょうか」
ぶつかり稽古を続ける二人を眺めての、春菜のつぶやきだ。
「やめろ」
「いいね。撮っちゃえ」
動きの止まった麻弥を、孝子が押し込む。
「お姉さんの痴態も漏れなく撮れてしまいますが」
孝子の動きも止まる。
「なんか、あいつ、私たちを軽くあしらってるぞ」
「年下のくせに、生意気だね。麻弥ちゃん、やっちゃって」
「お前がやれ。私は那古野でやっつけられて、かなわないって、理解した。多分、熊に襲われたら、あんなふうに、なすすべないんだろうな」
「誰が熊ですか。正村さんは失礼ですね」
参戦した春菜が、ひょいと麻弥を抱え上げると、その尻を孝子が面白がってたたく。笑いながらの怒声で、麻弥は孝子を威嚇する。今やキッチンは大騒乱の場である。
数分後、騒ぎが収まったところで、孝子が二人を当分に見回しながら言った。
「私、岡宮鏡子の名前で『昨日達』って映画の主題歌を歌うことになったよ。でも、口外は無用。おばさましか知らないの。静ちゃんたちにも言っちゃ駄目。いい?」
岡宮鏡子の潜航開始である。