第七五話 逆上がりのできた日(四)
鶴ヶ丘に到着したところで、孝子が車をとめたのは、神宮寺医院の並びにあるコンビニの駐車場だった。家に妹たちがいる可能性がある。極秘裏に物事を運びたいので、母を呼び出す。剣崎には、そのように説明している。……実際は養家に招きたくなかったのだ。剣崎の、音楽家としての技量には驚嘆していたが、それと人間性への信頼とは、また別の話である。
養母に電話をかけ、コンビニまでの来訪を依頼する。車を出て立つと、剣崎も隣にやってくる。
「そこの、神宮寺医院っていうのが、ご実家?」
「いえ。叔母が院長ですので、実家ではないです。細かい話ですけど」
「なるほど」
神宮寺医院の敷地から美幸が姿を現した。表通りへは医院を経由して出るのが、神宮寺家の人たちの常である。
孝子の姿を認めたらしい美幸の顔が、微妙にこわばった。隣の大男が原因なのは明白だ。
「もしかして、あの方?」
「はい」
二人を注視しながら近づいてくる存在に、剣崎も気付いたのだ。もしかして、とは、二〇近くの娘がいるにしては若々し過ぎる容姿のためだろう。
「孝子さん、お呼び? こちらは……?」
孝子の返事よりも先に、剣崎が動いた。深々とした一礼の後、いつの間に用意していたのか、名刺を差し出しながら名乗っている。
「トリニティ株式会社の剣崎龍雅と申します」
「剣崎さま、ですか……」
鋭敏な美幸も、さすがに養女と大男の関係が把握できないらしく、受けた名刺を眺めるばかりだ。
「……ああ、そうだ。こんな所じゃなくて、うちに」
「いえ。それが、お嬢さまはお母さま以外に知られたくない、とのご意向です。なので、わざわざこちらにご足労いただいた次第です」
「一体、なんの話ですか」
「実は、お嬢さまに、公開予定の映画に楽曲の提供をお願いしたいんです」
「まあ……!」
しばしの思案顔の後、美幸は孝子に車を出すように告げた。その辺りを適当に、と言った後で、やっぱり中心部に向かって、と言い直している。
「恥じらい」が、剣崎の説明の主軸だった。恥ずかしくて、孝子は音楽が趣味であるとは、親にも告げいていなかった、というのだ。後部座席の美幸は、剣崎の説明に黙ってうなずいていたが、不意に、そこのコンビニに、と指さした。コンビニの駐車場に車を入れ、エンジンを切ったところで、背後から美幸の両手が孝子の頬に伸びて、軽くつねられる。
「ひどいわ。うそをつくなんて。音楽は、全然、って言ってたじゃない」
無論、笑いながら、だ。しかし、孝子を慄然とさせるには十分である。
「すみません……」
「いいのよ。……それにしても、やっぱり、響子さんの血ね」
笑顔で孝子の頬をさすっていた美幸は、やがて、笑いを収めると、車を出して、と言った。右へ、左へ、と具体的な指示が続き、導かれたのは舞浜市中区の官庁街だ。
「そこのビルに入って」
言われるままに孝子はハンドルを切る。ビルの地下駐車場に車をとめると、美幸の先導で一行は一階のロビーに出た。
「こちらは……?」
剣崎の問いに、美幸は壁の案内板を指す。
「6F 相良一能法律事務所」
エレベーター待ちの時間で、説明が行われた。
「相良先生は、うちの顧問弁護士です。静にも那美にも知られたくないぐらいなら、当然、他の誰にも知られたくないのでしょう? 孝子さん。相良先生に孝子さんの希望を、遠慮しないで伝えてね。剣崎さん。契約の交渉は相良先生と行っていただきます」
あくまでも、剣崎の要請が今回の一件の全てであり、孝子の側には積極性の存在しないことを、美幸はわずかな時間で見て取っていたのだ。予想外の急展開に、孝子は驚喜に顔を輝かせる。さすが、やっぱり、おばさま、だ。そして、隣の剣崎はただただ苦笑いである。
相良一能法律事務所に入ると、早速、所長室に通された。部屋では恰幅のいい、壮年の男性が三人を迎える。相良一能弁護士だ。
「やあ。神宮寺さん、ようこそ。どうぞ、こちらへ」
孝子と美幸が分厚いソファに腰を下ろす横では、剣崎と相良弁護士が名刺の交換を行っている。
冷茶と茶菓子を運んできた事務員が去るのと同時に、剣崎が話の口火を切る。しばらくは剣崎と相良弁護士との応酬が続き、そして、二人の会話の最後だった。
「こちらの条件は、何もありません。神宮寺さんの意向を、全て受け入れます。ですので、今すぐに契約をお願いしたい」
孝子、美幸はもちろん、恰幅のいい弁護士も、この極言には驚く。
「剣崎さん。これは、いささか、乱暴な話に思われますが……」
「いえ。もう、とにかく時間がないんです」
映画監督漆原敦也は、肯定的に表現すれば「職人かたぎ」、否定的に表現すれば「偏執的」な人として知られている。一事にこだわり過ぎるあまり、全体の工程に壊滅的な遅延を、たびたび、起こしているのだ。今回、漆原が、その「職人かたぎ」ないしは「偏執的」な面を発揮したのは、女性ボーカルによる作品の「空気感」に沿った主題歌、だった。
「……だいたい、毎回、どこかで、こういうことが起きて。そういうとき、漆さんと一緒に活動する機会の多いメンバーを『漆組』というんですが、はまった、って。で、今回は俺が、はまった、わけで」
例えば、俳優の振り返る演技が気に入らず、一日中、同じシーンを繰り返した、とか。作品の題名が決まらず、悩み抜いた揚げ句に睡眠不足で倒れた、とか。……これは本人がはまった事例だが。その類いの逸話の最新版が『昨日達』の主題歌、というのだ。
五度の書き直しでも漆原は納得せず、先だって行われた関係者向けの試写会では、主題歌がかかる予定のクレジットタイトルは無音のままであった。この版は、ほぼほぼの完成版である。やけ気味となっていた剣崎は、これはこれでいいんじゃないか、などと無責任な感想を抱きながらスクリーンを眺めていたわけだが……。
「俺は待つぞ。君を」
しかし、漆原が発したのは、揺るぎのない「こだわり」と「信頼」の言葉だった。剣崎は頭を抱えたくなった、という。
「度が過ぎて怖いわ。娘を関わらせたくありません」
「わかります。わかりますが、そうなると、俺が困ります。一切の販促活動に関わらない、といった条件を契約に入れましょう。いや、もう、こちらの要求を全て断る権利、ということにしましょう。相良先生、お願いします」
「それで、あなたのほうは大丈夫なんですか……?」
相良弁護士も、いいかげん困惑の体である。
「大丈夫です」
こうして、「岡宮鏡子」こと神宮寺孝子と剣崎龍雅との間に、楽曲『逆上がりのできた日』に関する契約が結ばれたのだった。岡宮鏡子は孝子が指定した芸名だ。一刻も早いレコーディングを望んでいた剣崎は、その由来について問うてみる余裕もないようだった。美幸の「響子さんの血」という言葉も、その時には忘れてしまっている。言うまでもなく「岡宮」は孝子の旧姓で、「鏡子」は亡母の名の同音異字だ。響子と孝子は鏡映し――過去に田村倫世の母に言われた記憶から思い付いた名だった。




