第七四話 逆上がりのできた日(三)
「まひかぜ」を出ようとする孝子の足取りは危なっかしく、入り口の縦枠に肩をぶつけてよろめいたところで、大人二人が駆け寄ってきた。
「神宮寺さん……!」
「大丈夫? 少し休んでいったほうがいいよ」
おとなしく従い、孝子は店内に戻ると、カウンターに突っ伏す。先ほどまで、剣崎を相手に好き放題に暴れていた姿からの、あまりの変化に、大人たち声もなし。
最終的な決裁を仰ぐために漆原に会ってほしい、という要請に対して、自分は可否を判定される立場にない、と突っぱねる。しかし、という声には、自分が承諾したのは『逆上がりのできた日』の歌唱と提供のみである、それ以外の行動は拒否する、とねめ付ける。揚げ句に、どんな条件でも必ずのむ、と電話では言っていたが、あれはうそか、とすごむ。この時点までの神宮寺孝子は尊大だった。
にわかに風向きが変わったのは、渋面ながら孝子の言を受け入れた剣崎が、契約の締結を申し入れたときだ。いわく、未成年の孝子故に、契約には親権者の同意が必要である、と。
「……叔母では、駄目ですか」
「その方が神宮寺さんの親権者なら、それでも構わないけど。ご両親は?」
「……います」
「では、お父さんか、お母さんの同意が必要だね」
「どうしても、ですか……?」
「え……? う、うん。どうしても、だね」
その直後に孝子は「衝突事故」を起こしたのだ。
音楽は、好きだ。歌うことも、電子オルガンを弾くことも、ギターを弾くことも、楽曲を作ることも、どれも、好きだ。しかし、それらを他人に披露するのは、嫌だ。「本家」で練習させてもらっていたギターは、家人の不在のうちにこそっとやって、聴かせて、と言われれば、うまくなりません、と逃げ続けた。とうとう取り寄せた電子オルガンは、もちろん養母の目に留まったものの、母の思い出だけです、そもそも弾けません、とうそをついた。
最初に義理の叔母の名を出したのは、辛うじて自分の音楽好きを知っている、という理由と、彼女には「うそをつかなかった」という理由だ。「うまくならない。故に聴かせられない」は、断じてうそではない。かいつまんでの説明に、大人たちも困惑気味だった。
「……俺がご両親に説明するよ。必ず神宮寺さんの面目を立たせてみせる」
「私としては、約束をほごにして、このまま帰りたいです」
「いや。それは、困る」
狼狽した剣崎になだめすかされて、結果、孝子が決めたのは美幸への報告だった。話しやすさなら、養父であり実父の神宮寺隆行である。一方、養母の美幸に対しては、うそをついてしまった、という負い目がある。しかし、きっちりとしたことを任せるなら養母、という気がするのだ。剣崎龍雅という男を、まだまだ孝子は信じ切ってはいない。
「車、出そうか」
うなだれたままの孝子に、剣崎の声だ。可能ならば今日中にも契約を結びたい、という意向らしい。
「……いえ。大丈夫です」
岩城の見送りを受けて、ウェスタは一路、鶴ヶ丘へと向かう。
「神宮寺さん。カーナビ、触ってもいいかな?」
「はい」
既知の道なのでナビゲーションの画面は周辺を表示するだけだ。触られても、特に困ることはない。カーナビと取り出したスマートフォンとを、何やら交互に触っていた剣崎は、やがて、ちょっと音を止めるね、と言って、流れていた洋楽セレクションの再生を止めた。聞き覚えのない曲がかかる。スマートフォン内の楽曲を無線接続でカーナビに転送しているようだ。
かかりだした楽曲を、最初、孝子はなんの曲なのか、わかっていなかった。
「……剣崎さん、これは、逆上がり、ですか?」
「うん」
返事に続いて、剣崎の歌声が車内に響く。こわもてとは裏腹な、高く、澄んだ声は彼の特徴である。『逆上がりのできた日』に続いて『FLOAT』、『My Fair Lady』という、孝子が提出した楽曲を剣崎が編曲したものが、カーステレオから流れてくる。剣崎の歌声も続く。
『My Fair Lady』の途中で、孝子はコンビニの駐車場に車を入れた。
「……どうしました?」
歌をやめた剣崎が問うてきた。
「いえ。聴き入ってしまって、危ないので。ここで、ちょっと」
『My Fair Lady』が終わった。言葉が出ない。一応、孝子も自作曲には編曲を施していた。しかし、電子オルガンが手元になかったころに、ギター一本で仕上げたものだ。いい意味でも、悪い意味でもシンプルに仕上がったそれと、剣崎の編曲とでは、比ぶべくもない。音楽家の手練に、孝子は、あぜんと、感心していたのであった。
「失礼しました」
孝子は車を車道に戻した。
「……さすがでした。全然、私とは違って」
「ありがとう。神宮寺さんのは、全て、ギター用の編曲だったでしょう。その縛りがなければ、もっといろんな表現が出てくると思うよ」
「お世辞、ありがとうございます」
「ええ? フフ、フフフ……。神宮寺さんもDTM、やってみない?」
「いえ。私は自分でわちゃわちゃするのが好きなので。打ち込みには興味ありません」
「なるほど。車がマニュアルなのも、わちゃわちゃの一環かな」
「はい。剣崎さん、もう一回、流してもらってもいいですか?」
「もちろん」
剣崎がスマートフォンを操作する。『逆上がりのできた日』の前奏が車内にかかる。孝子は歌いだす。いつしか車は国道に合流していた。これ以降、鶴ヶ丘までは道なりだ。