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未知標  作者: 一族
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第七三話 逆上がりのできた日(二)

 孝子の運転するウェスタは、舞浜駅西口のトリニティ舞浜ショールーム界隈に近づいていた。結局、話を聞くことになったのだ。喫茶「まひかぜ」で剣崎と面談する予定だ。

 ハンドルを握る孝子の表情は、憤まんと困惑のない交ぜになったものだった。比率は、やや後者が高い。憤まんについては、面倒な話を、という剣崎への感情と、その面倒な話を、親友の人となりを知りながら持ち込んできた「恋する乙女」に対してのものだ。

 一方の困惑は、剣崎の粘り腰に対してだった。

「どんな条件でも必ずのみます。取りあえず話だけでも、なんとかお願いできないかな」

 果ては全面降伏同然の申し出までしてくるあたり、他人の事情に冷淡な孝子も、さすがに沈思せざるを得ない。

 トリニティ舞浜ショールーム裏の小道に入ると、路上に立っていた剣崎が気付いて、片手を上げた。待ち構えていたらしい。コインパーキングに車をとめ、降り立つと、剣崎の長躯が駆け寄ってくる。

「やあ、神宮寺さん。わざわざ、ありがとう」

「お久しぶりです。ずっと、待っててくださったんですか?」

「うん。車だと思って、そろそろかな、もうちょっとかな、って。おや。お一人で?」

 今回、孝子は麻弥の同行を許さなかった。直近の行動に対する遺憾の念が主だが、もう一つ、同席させれば剣崎の味方をして邪魔になる可能性が、という従もある。

「剣崎さん」

「うん」

「ご用のときは、私に直接、どうぞ。正村を使うのは、やめてください」

「あ、ああ。これは、申し訳なかった」

 間に寒風を吹きすさばせながら二人は「まひかぜ」に入った。カウンターの向こうでは岩城が微笑をたたえている。

「ほら。言わんこっちゃない」

「ええ……」

「剣崎君。表、クローズにしておいて。いらっしゃい、さあ、どうぞ」

 やりとりを眺めていた孝子に、岩城が席を示した。

「ご無沙汰してます」

「うん。……お嬢さんが、ね。張り切ってたんで、剣崎君も仕方なく任せたんだけど。僕は言ったんだよ。あのお嬢さんには、直接、言ったほうがいいよ、って」」

 変わらぬ手業でコーヒーを淹れながらの、岩城の語りだ。

「そうだったんですか。あれで一〇年来の付き合いなんですけど、マスターのほうが私のことをよくご存じでいらっしゃいます」

「年の功、ってやつだね」

 漆黒の液体で満たされたカップがカウンターに置かれた。一口含んだところで、お嬢さん、の声に、見ると岩城が奥の壁に掛かっている額縁を指している。

「……それは、正村ですか?」

 おそらく鉛筆で描かれたであろう、岩城の胸像が額縁には納められていた。

「そう。あんまりよく描けてるんで、もらっちゃったよ」

「スケッチは口実だと思ってました。ちゃんと描いてたんですね」

「お目当てがなかなかいなくて、手持ち無沙汰っていうのも、あったかもね。最近、忙しかったみたいで。……ねえ?」

 店内に戻ってきていた剣崎が、孝子の隣に腰を下ろした。

「ええ。今日、久しぶりにこっちに顔を出したら、正村さんも来てて」

「剣崎さん、申し訳ありませんでした。正村の自薦だった、ってマスターに伺いました」

「いや。まあ、神宮寺さんには、直接、連絡したほうがいいだろうな、とは思ったんだけど」

 最後までは言わず、笑いで収めた剣崎だった。

 剣崎の粘り腰の理由は、漆原敦也監督による『昨日達』の主題歌が、依然として決定していないことが原因だった。映画は一一月に公開予定という。

「残り二カ月っていうのは、映画では普通なんですか?」

「いや。普通じゃない。ぎりぎりまで発表を延ばす場合もあるけど、それだって、楽曲は完成していて、演出としてやってるだけで。全く、普通じゃない」

 理由は、監督のこだわり、という。

「五回書き直して、五回却下されたよ。自画自賛じゃないけど、どれもいい出来だったと思うんだが。まあ、決めるのは、あの人であって、俺じゃない、っとことだ。取りあえず、もう俺は、お手上げ状態。今回に限っては、あの人とは曲の話をしたくないぐらいさ」

「そういう方が私の曲と歌で満足されるとは思いません」

「既に、俺の仮歌で聞いてもらって、了解をもらってるんだ。歌も、俺が絶対の保証をする、って……」

「剣崎さん! どうして、そんな勝手なことをなさるのですか! 『逆上がりのできた日』は私の曲です。剣崎さんの曲じゃありません!」

「申し訳ない。謝ります。軽はずみでした。どうか、水に流して、許可をいただきたい」

 むっつりと黙り込んだ孝子に、こちらも押し黙ってしまった剣崎と、店内の雰囲気はひたすら重苦しい。その中で岩城は、カウンターの中をいそいそと動き回っている。

「お嬢さんは、もうお帰りになる?」

「え? そうですね。お話は終わりましたので」

「お菓子を焼くんで、時間があるなら待ってもらえると、うれしいんだけど」

「……はい」

「ありがとう」

 岩城は冷蔵庫から取り出した生地を、奥の机で伸ばして、折って、としながら、口を開く。

「お嬢さんに振る舞おうと思ってね。準備してたんだけど、今日はすぐに帰っちゃったんで。お嬢さんに代わりに。……どっちもお嬢さんじゃわかりづらいな。ええと、お名前を聞いてもいい?」

「はい。私は神宮寺といいます」

「ありがとう。僕は岩城です」

 小さなことだが、この岩城とのやりとりは、孝子に大きな感銘を与えた。お互いに、直接、名乗りあったことはないはずの二人である。

 成形した生地を小さなトースターに入れたところで、岩城がつぶやいた。

「一〇分ぐらいかな」

「岩城さん、あのビスケットですか?」

「うん」

 剣崎の問いに頷きながら、岩城はカウンターの定位置に戻った。手早く淹れたコーヒーに口を付ける。

「久しぶりなんでね。うまくできてればいいけど」

「神宮寺さんは、アメリカ式のビスケットは、知ってる?」

「肉厚の、パンみたいなのですよね」

「そう。俺は、岩城さんが出してくれるのが大好物でね。あれは、うまかった。いつからか、出してくれなくなったんですよね」

「年だよ。年。何もかもがおっくうになっていくよ」

 そう言って笑った岩城の「まひかぜ」は、今はコーヒーだけの喫茶店になっている。この後、供されたアメリカ式のビスケットを食べながら、孝子は自らの歌唱による『逆上がりのできた日』の提供を承諾したのだった。ここで剣崎に肘鉄砲を食わせると、「まひかぜ」に顔を出しにくくなる、という理由である。麻弥の行動も、剣崎の行動も、全く気に入らない。しかし、そこはかとない岩城のフォローをむげにするのは、なんとも申し訳ない。それに、アメリカ式ビスケットは、掛け値なしにおいしかった。人とお菓子の組み合わせを惜しんだ孝子だった。

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