第七三一話 よいよいよい(二七)
レネットの試乗が終わり、シータの点検も終わり、早一時間。ナジコ株式会社本社門前販売店に入ってからでは二時間。ふらりと出ていった異色の組み合わせ、尋道と依田が帰ってこない。みさと、正治と共にショールームの片隅に陣取って待つ身の孝子は、そろそろ、くたびれてきた。
「置いていったら駄目かな」
次は松波宅に行く。当初の予定になかった行動は、正治たっての招待であった。
「何を言ってるのさ」
「両輪」の相棒よ、果たしてどんな成果を持ち帰ってくるのか、とみさとは目を輝かせっぱなしだ。
「すみません。もう少し、待ちましょう」
また、ナジコの社員である正治が、社長の依田に断りなく、先に引き上げるなど、許されるわけもない。孝子の提案は両者に、即刻で、却下された。
「くそやろうどもが」
膨れて吐き捨て、外を見やった時である。巨大なウイングのヴァッケンローダー・ベオウルフRSが店舗の敷地に乗り入れてきた。ようやくのご帰還だった。
「やっとだよ」
「お!」
素早い。みさとは跳ねるがごとき歩調で外に向かう。孝子と正治も、その背を追った。
「郷さん。お帰りー」
「すみません。お待たせしました」
生あくびらしい。かみ殺しながら、尋道は言った。
「おや。郷本君、一人ですか。依田は?」
白い車から降り立ったのは尋道のみであった。正治の指摘どおり、依田の姿は、ない。
「午後はご家族とご予定があったとかで、直接、お宅にお送りしてきました。大豪邸ですね。守衛さんのいるお宅なんて初めて見た」
「おおー。すごい」
ここで、尋道は、なぜか、ふふん、と鼻を鳴らした。
「依田さん、奥さんに、めちゃくちゃ怒られてましたよ。お食事に行かれるはずだったそうで」
「郷本君は、大丈夫だった? こんな車を宅に見せたせいで、とか巻き添えを食らったりしなかった?」
「折りよく、お嬢さんがいらっしゃいましてね。お嬢さん、学生時代はお父さんと同じく桜田大でサッカー部に所属されていたんですよ。伊央さんの一年後輩」
「わかった」
伊央健翔の名を用いて令嬢の気を引き、彼女を隠れ蓑に暴風雨をやり過ごした、というのだろう。
「ご名答です」
「怖い。何が、怖い、って、娘さんの経歴を把握しているあたりが、怖い」
「有名ですよ。依田さんが、ご自身とお嬢さんとが関わった縁から、桜田のサッカー部ひいてはサッカー全般について深い関心を寄せられている、ってことは」
よって、自分の知識は自然なものであり、決して怖くない、と尋道は結び、今度は完全な生あくびをする。
「ふうん。まあ、いいや。そういえば、随分と時間がかかったね」
高速にでも上がって、ぶん回してきたのか。
「いえ。緑谷テストセンター、でしたか。そちらで」
緑谷テストセンターは、ナジコが擁する開発拠点の一つ、と正治の補足が入った。
「依田さん、テストコースで、大層、ぶん回されてまして。二五〇キロとか、初めて体験しましたよ」
「ああ。こんな車の本領を発揮させようと思ったら、そんな場所じゃないと駄目なのか」
「ええ。ところで」
尋道が話を区切った。
「終わりました?」
「うい。どっちとも。レネットは発注まで終わってますぜ。長沢さんの式に合わせて納車してもらえるよう頼みました」
「それは、それは。素早い。ちょっと、失礼」
断って、尋道は店舗の中に入っていった。店員から、おそらくは店長とおぼしき人物へとやりとりし、最後、何やら店長とおぼしき男性に手渡している。
「何事?」
戻ってきた尋道に孝子は問うた。
「依田さん、お車で来られたそうなんですが、今日は、もうこちらには戻らないので、月曜まで保管しておくように、という伝言を頼まれましてね。店長さんに鍵をお預けしたんですよ」
「ほい。あ。正治さんが、ね。お宅に招待してくださる、って」
「それは、ありがたい。ちょうど一休みしたかったんですよ。よろしければ部屋の隅ででも、寝っ転がらせていただけたら、と思うのですが」
早朝の起床から、ほぼ休みなしで、現在の時刻は午後一時を大きく回ったところだ。生あくびの連発を例に引くまでもない。蒲柳のたち気味の男は限界に近いのだ。どれ。松波宅では尋道のために時間を作ってやるとしよう。孝子は、そう決めた。




