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未知標  作者: 一族
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第七二話 逆上がりのできた日(一)

 月が変わり、九月。

 静と那美は鶴ヶ丘へ戻っていき、海の見える丘には三人娘の日常が戻った。正確には、大学の後期が開始してからが日常の本番なので、夏季休暇中の今は、まだまだ、のんびりと過ごしているのだが。

 閑暇を、孝子と春菜は勉強に費やした。同じ学年で同じ法学部、同じ講義を選択している二人だ。

 そして、麻弥は、というと、趣味に精を出している。画材を抱えて、スケッチに、などとわざわざ宣言しては、暑い中を出掛けていく。海の見える丘に来て、孝子にうっかりばれるまでは、自宅でも両親にすら明かしていなかったというのに、随分と開放的になったものではある。

 昼下がり、今月に入ってはや三度目のスケッチに出ていた麻弥が、帰宅するなり、息せき切ってLDKに飛び込んできた。

「どうしたの、慌てて」

 孝子はキッチンで夕食の下ごしらえの最中だった。旬のスズキをおろしていた。この時間、春菜は部活のため家を空けている。

「ああ、いや。あの、孝子、ちょっと話があって」

「うん」

「お前、剣崎さんに何曲か渡しただろ?」

 音楽家の剣崎龍雅に乞われて、自作曲を提出したことを言っているのだ。

「……そうだね」

「その中に『逆上がりのできた日』って曲があるだろ。映画に使わせてほしい、って剣崎さんがおっしゃってるんだけど」

『逆上がりのできた日』、『FLOAT』、『My Fair Lady』。以上の、全て英語詞の三曲を、孝子は剣崎に提出していた。

「……麻弥ちゃん、続きやって」

 孝子は手を止めると、シンクで手と出刃を洗いながら、立ちっ放しの麻弥に声を掛ける。

「ムニエルにするよ。よろしく」

「う、うん」

 キッチンに向かった麻弥の背後を孝子は取った。手を伸ばし、くりんと跳ねたうなじの一房に指を絡ませる。

「な、なんだよ……!」

 麻弥が、びくん、と体を震わせた。

「山下さんを紹介してあげよう」

「……誰?」

「私の行きつけの美容院の人。おばさまの高校の後輩で、腕が立つ、ってお店の世話までした人。小磯(こいそ)の『fleur(フルール)』ってお店。うちは全員が山下さんに見てもらってるの。麻弥ちゃん、髪、伸ばそうとしてるでしょう? 一気にやろうとしないで、少しずつ整えながらがいいと思うよ。山下さんに癖毛の押さえ方も教えてもらって」

 長い付き合いだ。麻弥がカットに行く周期は把握している。ベリーショートのため、孝子のそれよりもはるかに短く、だいたい月一ペースである。固まってしまった背中に構わず、孝子は続ける。

「前回、美容院に行って、もう二カ月ぐらいたってるのに行かないし。君の親友は、男と女のことに興味がないけど、それが、イコール、鈍感ではない、と思い知るがいい。休み中の明るいうちなら、いつでも大丈夫だよね」

 孝子は自室に戻った。神宮寺美幸に連絡を取り、山下美容師の店の紹介を依頼した後、その返答を待って、再びLDKだ。

「あさっての一一時、予約したよ」

 いまだ赤みの残る顔に向けて言うと、孝子はソファに腰掛けた。手にしたスマートフォンから剣崎を呼び出す。自室で、手短に済ませてしまっても構わなかった。むしろ、そうしたかったのだが、「恋する乙女」にも一定の配慮は払わなければならない。

「ご無沙汰してます。神宮寺です。伝言、伺いました」

 キッチンで物音がしたが、無視する。剣崎によると「漆原敦也(うるしはらあつや)」という映画監督の『昨日達(きのうたち)』という映画が制作中、らしい。共に覚えのない名前だったので、ここは孝子も、左様で、である。剣崎の申し出は『昨日達』とやらの主題歌に『逆上がりのできた日』を使わせてほしい。併せて歌唱もお願いしたい。これ、だった。

 話は聞いた。これで、一定の配慮は終了だ。

「お断りします」

 返事をする。これは、孝子の専権事項だ。

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