表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未知標  作者: 一族
725/744

第七二四話 よいよいよい(二〇)

「あああああ」

 失念していた。一人だけ世話を焼かせた相手が存在した。それも、格別に。黒須夫人の清香である。五月だ。司法試験を終えた帰りだ。勉強漬けの日々で目減りしていた精と根を試験で完全に失い、意識朦朧に陥りかけた孝子は、彼女の救援で事なきを得ている。あの人に合格の報告をしないことは倫理にもとる。

 善は急げ、という。本日、二度目のパーキングエリアに乗り入れた。一人だった。外に出る必要はなく、車中から電話をかけた。

「はいー!」

 智美張りの大音声に、孝子は耳からスマートフォンを遠ざけた。

「どうされたんですか。奥さま」

「いえ、ね。うちの宿六が、また、やらかしたんでしょう?」

「はい」

 孝子は悪びれない。非は人の会話に割り込んできた無作法者にこそある。

「本当に、ごめんなさい。で、今度こそ、完全に、見限られただろうなあ、って思ってて。それが、電話をもらえたから、つい」

 既知の二人組のうち、片方と絶縁しておきながら、もう片方との交際は継続するがごとき事態は、なかなかに起こり得ない。司法試験時の恩義がなければ、清香とも、自然、そうなっていたであろう、とは思う。今、この時に、言うべきことではないので黙しておくけれども。

「今日、お電話したのは、ご報告と、改めてのお礼を申し上げたくて」

「え? なんだろう?」

「五月ですけど、お宅に転がり込んで、一泊させていただいたことがあったじゃないですか」

「あった、あった。あの時の孝子ちゃんは、かわいかったなあ」

「何をおっしゃいますやら。私はいつもかわいいです」

「そうだった! あ。わかった!」

「はい。司法試験、合格しました」

 あらかじめ備えておけば、読みどおりの叫声だった。

「おめでとーう!」

「ありがとうございます。今日が発表日だったんです」

「早速、知らせてくれたんだね」

「はい。親よりも先にお知らせしました」

 虚言は、吐いていない。

「うれしい! 孝子ちゃん。お祝いしたいな」

「奥さまには、大変なご迷惑をお掛けしたわけですし、お気持ちだけで十分です」

 遠慮ではなく本意になるが、

「いや。したい。あと、それに先駆けて、お願いがあるの」

 当然、そうくると思っていたので、軽く応じる。

「なんでしょう?」

「奥さま」をやめてくれ、との要望であった。

「詰まるところ、貴一さんあっての呼ばれ方じゃない? 『奥さま』って」

 確かに、初めに夫ありきの呼称といえる。

「それだと、何かあったときに、巻き添えで私まで孝子ちゃんと疎遠になっちゃうでしょう?」

「ご夫婦の片方を差し置いて、というのは、確かに、ちょっとはばかりますね」

「そこよ」

 差し置いて、よい。はばからなくて、よい。清香は、そう言う。

「三人で仲よくしたかったけど、諦めた。二人、絶望的に合わないんだもん。だから、孝子ちゃん。私と、直接、仲よくしよう」

 理解した。子のない夫妻が娘のように思っている相手は、どうにも、夫氏と折り合いが悪い。この女との友好を深めるためには、いかんせん氏の存在が邪魔になる。よって、仲間はずれにする、か。いいだろう。乗った。

「私は構いませんよ」

 わざとらしくかしこまったりは、しない。平然と受け入れてみせる。

「よかった!」

「早速ですが、『奥さま』改め、なんとお呼びすればよろしいでしょう?」

「そうねえ。学生時代は、サーヤ、なんて呼ばれてたけど」

「サーヤちゃん」

「ちゃん、はやめよう」

「いいじゃないですか。気持ちぐらい若く持ちましょう」

「何、その言い方は」

「サーヤちゃんが、実は、そこそこおばさんだってことは、調べがついています」

 こしゃくな小娘がお好みの清香、と見切っている。続いて、お祝いの内容やら日程やらをずけずけ要求するのも手の内だ。悪いやつである。神宮寺孝子という女は。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ