第七二四話 よいよいよい(二〇)
「あああああ」
失念していた。一人だけ世話を焼かせた相手が存在した。それも、格別に。黒須夫人の清香である。五月だ。司法試験を終えた帰りだ。勉強漬けの日々で目減りしていた精と根を試験で完全に失い、意識朦朧に陥りかけた孝子は、彼女の救援で事なきを得ている。あの人に合格の報告をしないことは倫理にもとる。
善は急げ、という。本日、二度目のパーキングエリアに乗り入れた。一人だった。外に出る必要はなく、車中から電話をかけた。
「はいー!」
智美張りの大音声に、孝子は耳からスマートフォンを遠ざけた。
「どうされたんですか。奥さま」
「いえ、ね。うちの宿六が、また、やらかしたんでしょう?」
「はい」
孝子は悪びれない。非は人の会話に割り込んできた無作法者にこそある。
「本当に、ごめんなさい。で、今度こそ、完全に、見限られただろうなあ、って思ってて。それが、電話をもらえたから、つい」
既知の二人組のうち、片方と絶縁しておきながら、もう片方との交際は継続するがごとき事態は、なかなかに起こり得ない。司法試験時の恩義がなければ、清香とも、自然、そうなっていたであろう、とは思う。今、この時に、言うべきことではないので黙しておくけれども。
「今日、お電話したのは、ご報告と、改めてのお礼を申し上げたくて」
「え? なんだろう?」
「五月ですけど、お宅に転がり込んで、一泊させていただいたことがあったじゃないですか」
「あった、あった。あの時の孝子ちゃんは、かわいかったなあ」
「何をおっしゃいますやら。私はいつもかわいいです」
「そうだった! あ。わかった!」
「はい。司法試験、合格しました」
あらかじめ備えておけば、読みどおりの叫声だった。
「おめでとーう!」
「ありがとうございます。今日が発表日だったんです」
「早速、知らせてくれたんだね」
「はい。親よりも先にお知らせしました」
虚言は、吐いていない。
「うれしい! 孝子ちゃん。お祝いしたいな」
「奥さまには、大変なご迷惑をお掛けしたわけですし、お気持ちだけで十分です」
遠慮ではなく本意になるが、
「いや。したい。あと、それに先駆けて、お願いがあるの」
当然、そうくると思っていたので、軽く応じる。
「なんでしょう?」
「奥さま」をやめてくれ、との要望であった。
「詰まるところ、貴一さんあっての呼ばれ方じゃない? 『奥さま』って」
確かに、初めに夫ありきの呼称といえる。
「それだと、何かあったときに、巻き添えで私まで孝子ちゃんと疎遠になっちゃうでしょう?」
「ご夫婦の片方を差し置いて、というのは、確かに、ちょっとはばかりますね」
「そこよ」
差し置いて、よい。はばからなくて、よい。清香は、そう言う。
「三人で仲よくしたかったけど、諦めた。二人、絶望的に合わないんだもん。だから、孝子ちゃん。私と、直接、仲よくしよう」
理解した。子のない夫妻が娘のように思っている相手は、どうにも、夫氏と折り合いが悪い。この女との友好を深めるためには、いかんせん氏の存在が邪魔になる。よって、仲間はずれにする、か。いいだろう。乗った。
「私は構いませんよ」
わざとらしくかしこまったりは、しない。平然と受け入れてみせる。
「よかった!」
「早速ですが、『奥さま』改め、なんとお呼びすればよろしいでしょう?」
「そうねえ。学生時代は、サーヤ、なんて呼ばれてたけど」
「サーヤちゃん」
「ちゃん、はやめよう」
「いいじゃないですか。気持ちぐらい若く持ちましょう」
「何、その言い方は」
「サーヤちゃんが、実は、そこそこおばさんだってことは、調べがついています」
こしゃくな小娘がお好みの清香、と見切っている。続いて、お祝いの内容やら日程やらをずけずけ要求するのも手の内だ。悪いやつである。神宮寺孝子という女は。




