第七二一話 よいよいよい(一七)
車を駐車スペースにとめ、しばらく待つうちに、む、とマネージャー氏がうめいた。彼女の視線をたどると、宿泊棟に隣接して立つトレーニング棟のほうからやってくる、誰か、に向けられているように思われた。うめきの対象も同一人物であろうか。
「どうされました?」
「あれ」
マネージャー氏は、くだんの人影を指す。
「私が声を掛けたやつって、テクニカルスタッフなんで、あんな格好はしてないんですよ。あのやろう。横着して、うちの選手をぱしらせたか」
あんな格好は、瑠璃色のシャツと黒のショートパンツ、だ。選手用のウエアという。
「あ」
また、マネージャー氏だ。
「伊澤じゃないです?」
言われてみれば、舞姫の伊澤まどかにも思える。
「お疲れっすー」
気付かれたことに気付いたようで、大声の呼び掛けが届いた。確かに、まどかの声だった。
「そうでしたね」
手を振り振り、まどかの到着を待つ。
「到着。ご案内します」
「伊澤。中西は?」
「お姉さんがいらしてる、って聞いて、各務先生が、連れてこい、って。私に。直系だからって、めっちゃ先生にぱしらされてるんですよ」
まどかの恩師、長沢美馬は、全日本女子バスケットボールチームのヘッドコーチ、各務智恵子の教え子だ。つまり、まどかは各務にとって孫弟子ということになる。扱いやすい存在なのである。
「それはご愁傷さま」
「そんなわけなんで、いらしてください。お二人が、食堂を使いたいだけ、っていうのは知ってます。でも、逃したら私が怒られるんで。お願いします」
仕方ない。孝子はマネージャー氏と共に、まどかの先導を受けてトレーニング棟に入った。棟の三階が全日本女子バスケットボールチームが活動するフロアだ。
「おう。こっちだ」
アリーナの入り口に立ったところで各務の声が来た。
「何用ですか」
言って、アリーナの端にいる各務の元へ向かう。
と、そこへ、
「お。姉さんじゃん」
コート上で三々五々に散っていた全日本のメンバーのうち、旧知の人たちが孝子に気付いて、集ってきた。かつての「中村塾」の塾生たちだった。
「姉さん。なんで手ぶらなの。差し入れは?」
肉厚の大女は全日本のキャプテンを務める広山真穂である。
「久しぶりに会ったってのに、早速、食い物の話か。この大女が」
体当たりするも簡単にはじき返される。
「痛い。電柱かよ」
「姉さんは電柱に体当たりしたことがあるの?」
「あるわけないでしょう」
「孝子。戯れとらんで、こっちに来んか」
「はあい。広山さん。またね」
呼ばれて孝子は各務の眼前に立った。
「で、ご用は?」
「お前、全日本のスタッフにならんか?」
脈絡もなく何を言い出すことか。
「金」
関わり合いになりたくなかった。ぶっちぎるとする。
「いくらだ」
「一〇〇億ドル」
かつてアーティ・ミューアに吹っ掛けた額と同じだ。きゃつのときは、その自負を読み違えていたために、まんまと承諾されてしまったが、常識人の各務は絶対に乗ってこない、と読む。
「びた一文、まけませんよ」
各務の反応はなかった。関心はない、という意志が確と伝わったようだ。会話の停止を確信した孝子は、傍らのマネージャー氏に向き直った。
「おしまいみたいです。帰りましょう。お話は、途中、パーキングエリアにでも寄って」
歩きだして、顧みた。各務は苦笑を浮かべて、あっち行け、と手を振っている。お言葉に甘えて、ずらかる。完勝だった。




