第七〇話 姉妹(二三)
松波がなじみの店との往復、食事、および、ナジョガクに戻ってからの懇談を終えると、午後五時を大きく回っていた。孝子と麻弥は大慌てで帰途に就いたものの、緑南市の北崎家に帰り着いたのは、午後七時の寸前だ。
「どこをほっつき歩いてたー!」
車を降りるなり那美が急襲してきた。じきに戻る、と連絡を入れていたため、待ち構えていたらしい。抱き留めると強いシャンプーの香りだ。
「お昼はごちそうしていただいて、あとは、ナジョガクでずっとおしゃべりしてた」
「何を食べたー!」
「アユ尽くし」
「アユ? 勝った」
「おはるに何かごちそうしてもらったの?」
「おじさんとおばさんに、ステーキを食べに連れていってもらった!」
「アユのおいしさがわからないとは。小娘が」
「なんだとー」
孝子と那美のやり合う声が聞こえたらしい。静と春菜も出てきた。
「お帰り。遅かったね」
「アユを食べてきた、って威張ってる!」
「岐阜の、なんていいましたっけ。『渓清』だ」
「春菜も行ったことあったか」
「はい。あのおじいちゃんの行きつけですね。うちも総出で何回か招待していただいたことがありますよ。ともあれ、まずは、お風呂をどうぞ」
これ以上、待たせるわけにはいかない、と二人は入浴をからすの行水で済ませ、相次いで離れの居間に顔を出した。食卓には昨日を上回る質と量のごちそうが並んでいた。
「あら。ゆっくりで大丈夫だったのに」
「いえ。待ちくたびれましたので早く始めましょう」
春菜の母の気遣いを、その娘が台無しにする。
「これ。春菜」
「いえ。おばさま。本当に、待たせてしまったので」
「そうですよ。で、おおかた想像は付いてますけど、おじいちゃんはお二人になんの用だったんです?」
空腹がどうこうではなく、春菜の興味はその一点にあったらしい。
「おじさまとおばさまの御前で、言っていいのかなあ」
「……だいたい、わかったよ」
春菜の父がにんまりとうなずいた。
「はい。この子の世渡りには不安しかないので、よろしくお願いする、と」
「そんなことだろうと思ってました。心配性な」
「でも、図星だったろ?」
「はい。四月ごろの食費なんて、われながら、目を疑いますよ。本当に、お二人に拾っていただいて、よかったです」
「北崎さん。いくらぐらいだったの?」
天ぷらをぱくついていた那美が問うた。
「一カ月で一〇万円を超えて、二人が会議を開いたらしいですよ」
春菜の父母が失笑した。
「食費以外のもろもろも合わせると、月に三〇万円近くだったしね。これが四年か、って」
「春菜さん。今は……?」
「今は、込みで五万ですね」
「すっごい減ってる! でも、そんなに減らして、大丈夫なのー? 孝子お姉ちゃん。北崎さんにもしものことがあったら、メロンの供給が止まっちゃうんだよ。北崎さんにひもじい思いをさせてない?」
「内食と中食は、全然、かかるお金が違うし、食べる量は減ってないはずだよ」
「むしろ、増えました。静さん。悪いことは言いません。お二人のサポートを得た私は無敵です。舞浜大に来て、この無敵っぷりを体験したほうがいいですよ」
「え……?」
「他の大学はもちろん、重工でもウェヌスでも不足です。それがわからないのであれば、静さんには、少しがっかりですが」
放言に、静は目を白黒させている。
「……ああ。舞浜大っていえば、お前、各務先生とうまくいってないの?」
間を埋めたのは麻弥だ。松波の談話にあったねたを持ち出してきた。
「松波先生が、そうおっしゃってたんですか?」
「うん。国府に行ったときとか、すごく、息が合ってるようだったし、聞いてて、あれ、って思って」
「最初のうちは、確かに、あまりうまくいってなかったですね」
「どうして?」
「静さんや須之内さんを育てた長沢先輩のお師匠ですよ。どんな、すごい人かと思っていたら、ただの先生で。がっかりしたんです」
「なんだ、それ……?」
春菜の返しは奮っていた。気に入らないのは、他の部員と自分を分け隔てなく扱おうとしたことだ。私を誰だと思っているのか。有象無象と一緒にされては困る。取るに足らない小人なのか。舞浜大に来たのは失敗かもしれない……。
「今は、そうでもありませんけどね。ようやく私のことを理解していただけたみたいで。私に兼任コーチの役を振ってきたんですよ。部員にも、なんと、ご自分にも、気が付いたことがあったら、どしどし指摘してくれ、なんて。私に対する当然の処遇ですが」
あぜんとする一堂の中で、孝子は沈思していた。すさまじい物言いだった。その道の大家であっても、春菜ほどに洋々とした自負を持ち合わせている者は、そうはいまい。あの好々爺が、自分以外の者では、と危惧したのも納得だ。「至上の天才」の名はだてではないらしかった。




