第六九話 姉妹(二二)
車が走りだして、すぐだった。食事中に自分ばかり長話をするのもはばかられる、今のうちに、と松波が始めたのである。長話とは、何かしらの障りがある、とみるべきだろうが。ならば、佳世に同席を許したのは、よくわからない。とにもかくにも、だ。引き続き助手席に座っていた孝子は、麻弥にいったん停車させ、佳世と座席を替わった。
「失礼しました。お伺いします」
「うん。春菜の話、ね。かなり変わった子で、驚いたんじゃないかな、と思う反面、あの子と難なく打ち解けたお嬢さんたちも、実は、ちょっと変わっていたりするのかな、と考えてみたりして」
「まあ。松波先生、お口の悪い」
運転席では麻弥が肩を揺らしている。
「いずれにしても、よかった。あの子が、舞浜で、あなたたちと出会えて、ね。私以外の人の下でやっていけるのか。一人暮らしも、まあ、向いてなさそうだ。もう、心配で仕方がなかったよ。後で聞いたら、案の定、どちらともうまくいってなかったみたいだし」
各務との師弟関係は、相当に砕けたものに見えていただけに、意外な松波の述懐であった。一人暮らしについては、ご明察のとおり、としか言えないが。
「人の話を聞かないんだな。全く。自分の能力を完全に把握しているもので、他人を必要としない」
「そのくせ、一人暮らしを敢行しちゃったんですね」
「全くだよ。できない、って自分でもわかっていただろうに。一匹狼なところもある子だ。そこを優先させ過ぎたんだね」
「そんな子に慕われる松波先生一流の操縦術って、どんなものだったのでしょう」
「いや。私の言うことだって、聞かないよ。私一流の操縦術と言われたが、実のところ、私に、それはなかった。強いて言うならば、一切の指図をしない、だね」
「完全に、尊重する、と?」
「そう。まさしく、だよ。全て信じて、全て委ねて。『至上の天才』を生かす方法は、それのみなんだ。各務さんは、よく知っているが、あの人でも難しいよ。だって、信じて、委ねては、言い換えれば、何もしない、につながるんだもん。その点、私はあの子との付き合いが長い。たまに冗談めかして、おじいちゃん、なんて言ってくるけど、私にしても孫みたいなものだ。何を言おうが、何をされようが、全然、腹は立たないよ」
「わかりました。肉親のように温かい目で見守ってくださる松波先生の下にいてこその、あの子、だったんですね」
「そうなんだ。ところが、五月の終わり、だったかな。各務さんに連絡をもらってね。なんでも、姉貴分みたいな二人とつるみだして、以来、あの子が変わった、と」
五月の終わり、といえば、春菜を海の見える丘に迎え入れ、三人の親密の度も、いい具合に深まってきたころだ。
「その二人は、割とあの子に、ぴしぴし言うそうなんだけど、素直に話を聞くというよ。不思議じゃないか。私が同じことをしたら、間違いなく逃げられる」
「松波先生。それ、誤報です。私、ぴしぴし言いません」
麻弥が抗議の声を上げた。
「ぴしぴしは、隣の、そいつです」
「黙って運転しなさい」
「ほら。そういうやつですよ」
掛け合いに、松波は失笑だ。
「その話を伺ってからというもの、ずっと会いたかったんだ。さっき出た操縦術さ。私とは違う操縦術を持っているらしい君たちに、あの子の行く末を頼めないものか、と思ってね」
車内の空気は一気に張り詰めた。口にしたのが老齢の松波だ。真っ先に健康上の問題を想像したとしても、この際は、孝子たちの短慮とはなるまい。
「ああ。違う。おかげさまで、至って健康さ」
三人の様子に気付いた松波はきっぱり否定した。車が川沿いの道に入った。ここからは道なり、と松波はつぶやいて一息ついた後に、続けた。
「私が言いたかったのは、あの子が残りのバスケット人生を健やかに送れるよう、手助けしてほしい、って意味だよ」
バスケットボールについての極大な才能と、反比例する極小のモチベーションを体内に同居させる北崎春菜である。このアンバランスを、唯一、理解する自分の手を離れた彼女は、いずれ周囲の無理解に嫌気が差して、バスケットボールを捨てる、と松波は予想していた。天才を待ち受ける、避けては通れぬ運命よ、と苦慮していた矢先、飛び込んできたのが姉貴分みたいな二人の存在だ。……彼女たちをよろしく頼めば、春菜のバスケットボール人生を安着に導くことも、あるいはできるかもしれなかった。通訳か、緩衝材か、そんな役割を願えはしないだろうか。松波はいちるの望みを孝子と麻弥に託そうとしていた。
「松波先生。本当に、おじいちゃんですね」
「うん」
はにかむ松波に向けて、孝子はうなずきで返した。
「ことバスケットのプレーに関する限りは、何一つ、心配しないけど、あの子の世渡りには、本当に、不安しかないんだ」
「承知しました。安んじて神宮寺孝子と正村麻弥にお任せくださいませ。おじいちゃんの公認をいただきましたので、引き続き、ぴしぴしいきます」
「うん。ありがとう。心強い一言をいただけて、おじいちゃん、うれしいよ。ああ。肩の荷が下りた気分だ。着いたら大いに食べよう。みんなも遠慮しなくていいんだからね」
莞爾として松波は言った。