第六話 フェスティバル・プレリュード(六)
孝子の旧姓は岡宮といった。岡宮孝子がこの世に生を受けた時の孝子の姓名だ。母の名は響子。母子家庭で、父親は孝子が生まれる前に亡くなった、と聞かされていた。福岡県春谷市春谷町で生まれ育った孝子にとって、神奈川県舞浜市は学校教材の地図帳を通じてしか知らない土地だった。
そんな岡宮孝子が神宮寺家との接点を持つに至った契機は、母との死別だ。孝子九歳の夏ごろに体調を崩した響子は、坂道を転がり落ちるように容態を重篤化させ、同年一二月にあっさりと逝ってしまった。
ただ、孝子の記憶に懸命の闘病生活を送る母の姿はない。
「分の悪い賭けはしない。頑張ったら頑張っただけ、治る率が上がるのなら、孝子のために、いくらでも頑張るけど、そうじゃないみたいだしね」
自分の罹患した病との付き合い方を、以上、表明すると、響子はすっぱり治療をやめた。そこからは、ひたすら娘の行く末を案じる活動だ。なかなかうまくいかないことが多かったらしく、病魔と煩悶のため、響子は見る間に憔悴していった。病勢が募ったのは、彼女の、その姿勢にこそ原因があったのだ。
母と、母の高校時代の同級生とかいう若い男性医師との対決を、孝子は覚えている。治療を勧めるべく、たびたび岡宮家にやってくる彼に対した響子の答えは、いつも同じだった。
「金は孝子に全て残す」
そんな折、岡宮母子の前に現れたのが、神宮寺隆行と美幸の夫妻だった。
「こちらは神宮寺隆行さんと美幸さん。私の古いお友達よ。この方々に孝子の将来をお願いしたの。お二人の言い付けをよく守って。いい子でいなさい。……元気で」
隆行と美幸を孝子に紹介した時の響子の顔、声であった。凄惨ささえ漂いだした青白い顔で、気が強い、といって、これほど気の強い人は、ちょっといないであろう、という母が目に涙を浮かべ、か細い声で孝子に言い含めるのである。母の戦いが、終わったのだ。それと察して、同じく孝子も涙した。
夫妻の登場後、間もなく、響子はこの世を去った。信頼に足る人たちに娘を託して、その死は安らかであった、はずだった。
響子の死後、孝子は神宮寺夫妻の住まいのある神奈川県舞浜市に引き取られた。一年がたったころには夫妻の養女になった。居候からの格上げである。当時は、はい、と頷いただけだったが、年を経るにつけ、すなわち、神宮寺家の家格を理解するにつけ、その本家の一員に加えられた重みに、孝子は打ち震えたものだ。養父母の慈愛を一身に受け、また、義理の叔母と養祖父にも目をかけられ、二人の義妹には慕われ、神宮寺孝子は幸せだったのである。
それ、を思い出したのは、おととしの一二月だった。
「大人になったら、読んで」
母の死の一週間前だ。この言葉とともに手渡された封書の存在を、孝子は長く忘れていた。思い出さないほうがよかった、とは今でも思う。まだ大人ではなかったのに、早まった、とも思う。だが、過ぎ去った昔には戻れない。絶対に不可能だ。
封書の中身には、まず、かつて響子と隆行は恋愛関係にあり、その結果、誕生したのが孝子、と淡々と記されていた。これは、いい。もちろん孝子も驚きはしたが、これは、いい。問題は、続き、だ。
響子を信じる限り、自分を捨てた、かつての恋人の世話になろうとは、ぎりぎりまで、考えていなかったようだ。娘の出生すら伝えずに、シングルマザーとして奮闘してきた意地である。しかし、その意地も、ついに限界に達した。万策尽きた。友人の男性医師に従って、神宮寺隆行を頼るしかない。彼は、響子と隆行、双方の同級生であった。響子の苦渋を察した友人の男性医師は、ずっと隆行に連絡を入れるべし、と提案していたらしい。そして、この提案を入れた瞬間に、響子は、修羅と化したのだ。
金さえあれば、あの男に孝子を託したりはしなかった、と何度、書かれていただろう。だが、岡宮家には金がない。自分の死後に支払われる保険金では、孝子が成人するまでの額としては不足だ。わずかにある土地も、田舎のこと、さしたる価値はない。頼みになる身寄りもいない。隣家に住む、気心の知れた一家は、うちと同じく貧乏で、役に立たない。ないない尽くしで是非もない。あの男にすがるしかなくなった。幸い、あの男はお人好しで、泣き落としの通じる、甘っちょろいやつだ。あの男の女房とやらも、あの甘っちょろいやつに引っ掛かるばかな女だ。物の数ではない。金だけは持っているそうなので、せいぜい泣いてみせてやろう。信じ難いことに響子は演技を告白していた。
娘よ。この決断は、決して母の本意ではなかった、と知れ。私は、あの男が憎い。この思いを、知れ。そうでなければ、母は無念だ。娘よ。この手紙を読み次第、あの男とは縁を切れ……。
ばかな、だった。昔日の二人の間で、どのような愛憎劇があったのかは、知らない。知らないが、今の神宮寺隆行と神宮寺美幸は、母子にとって、救い主だ。その人たちに対して、なんという言い草か。隣家に住む一家への悪口もひどかった。母の幼なじみが構える一家ではないか。一家の娘は私の親友ではないか。偶像が、木っ端みじんに砕け散る音を孝子は聞いた気がした。厳しくも温かく自らを育んでくれた母の、である。一人娘のために生命の炎を燃やし尽くした母の、である。先方への敬意もなくわが子を託す。まるで托卵だ。私は托卵されたのか。孝子は卒倒した。
舞浜大学病院に運び込まれた孝子は、病床で二カ月を過ごした。食事が喉を通らず、点滴装置に捕らわれたままの孝子に、周囲は、例えば、辱められた、などの、強烈な心身への打撃があったのではないか、と気をもんでいたようだ。探りを受けるたびに、孝子は思った。言えるわけがない、と。
二月に入って退院した孝子は、快気祝いの席で、神宮寺家を立ち退く、と養家の人たちに告げた。托卵された身が、どの面下げて養親と暮らせるものか。消え失せるのが孝子の結論だった。
当然、大反対を受けた。が、一人、美幸だけは孝子の意向を認め、周囲をあぜんとさせた。
「私が許すと言ったなら、それがうちの決定です」
昂然と言い放った美幸に、孝子も驚いていた。誰に、と考えたとき、最も強力に引き止められる、と予想していた養母の承認だったのだ。……そういえば、入院中も、養母だけは、くどくどと孝子を問い詰めなかった。なんとも言い難い予感があった。
「少し、お話をしましょう」
誘われるまま、孝子は美幸と共に家を出た。薄曇りの正午すぎで、風は少し冷たい。美幸に示され、孝子は車の助手席に乗り込んだ。無言でハンドルを握る美幸の隣で、孝子は「お話」の内容を考えていた。家を出た後も面倒を見る、というのなら謝絶するしかない。いたたまれないのだ。いつか立ち退くつもりだった。予定は就職のタイミングであったが、少し早めて、と言って納得してもらうしかない。神宮寺家を出たら、福岡に戻ろう。福岡には、かつて母と暮らしていた家が残っている。しばらく生きていくだけなら、難しくないだろう。その先は、また、そのときになって考えればいい。