第六九五話 クラリオン(一九)
何事か、と驚いても運転中の身だった。しかも、高速道路である。尋道はわずかに左方向へと振った視線を、すぐ戻した。佳世が、来た。運転手への遠慮は無用のこと、と空席を奨励した助手席に、わざわざセンターコンソールを乗り越えてまで、だ。
「どうされました?」
小声で尋ねた。尋道が背後の出来事に気付かなかったのと同じく、こちらの言動も乗客たちには届かないのである。音量を絞れば、いっそう堅い。
「正村さんに怒られました。なんで来たんだ、って。むかついたんで、べー、ってやって逃げてきました」
尋道は胸中に嘆息した。佳世のためを思っての忠言なのだろうが、後にしてくれたら、と思う。参加者の内訳は事前に通達されていたので、そこで済ませておくのも、あり、だ。いずれにせよ、今、ではない。
それはそれとして、である。佳世の変わりようだった。全日本女子バスケットボールチームの合宿を蹴っ飛ばしたことといい、麻弥に敢然と反抗したことといい、ある種の成長といってもよい。これは、ひょっとすると、ひょっとする。策士の血が、ふつふつ沸き立ち始める。
「池田さん」
「はい」
「ちょっと、変わりましたよね。前は、人の後ろで、こっそりしているイメージだったんですが」
「はあ」
この男も苦言か、と佳世の声には警戒の響きがある。
「いい兆候です」
「え?」
「須之内さんみたいに、一皮剥けたんじゃないですか?」
「えー」
うなる声は、先ほどとは打って変わった調子だ。褒められているとわかって、気をよくしたらしい。
「多分、『本家』さんでの生活のおかげですよ。お姉さんはもちろんですし、美咲さんも、那美さんも、豪快な方たちで。こっちまで気が大きくなっちゃったみたい」
「なるほど。その、大きくなった気が、女子バスケ界の誇る逸材に、とうとう開花の時をもたらすかも、と僕は見てるんですが」
「でも、私、全日本を追放されちゃいましたしー。無意味な開花です」
うへへへへ、と佳世は笑う。ますます頼もしい。
「多分、呼び戻されますよ。背に腹は代えられない。今年の世界選手権で、全日本は大苦戦するはずなので」
「私がいないだけで、それはあり得ません」
「おや。ご存じない?」
「何を、ですか?」
「北崎さん、全日本を辞退しますよ」
え、と極大の音量が車内に響いた。
「おーい。どしたー?」
「こっちの話です。お構いなく」
みさとの声をあしらい、尋道は続けた。
「池田さん、ね。前に、神宮寺さんから、あったでしょう。北崎さんのコーチ業開業を、静さんがいさめようとしているけど、助力を頼まれても相手にするな、みたいな」
「ああ。はい。言われました。でも、あれが、何か?」
「どうして相手にしてはいけないかの説明は受けませんでしたか?」
「北崎さんに無礼だから、って」
「それです。で、実際に静さんは、いろいろ動き回りました。北崎さんは、それを知って、怒りました」
「えー」
「わかりませんか。いさめる、ってことは、お前にゃ無理だ、って言ってるのと同じなんですよ。『至上の天才』が、そんな侮辱を看過するわけがない」
目にものを見せるため、春菜は、まず、コーチ業を優先する。伊央を立派に育て上げ、返す刀で静だ。二度とバスケットボールに触れる気を起こさなくなるぐらい、完膚なきまでにたたきのめす。もって、「至上の天才」が持てる力の証明は終了となる。
「北崎さん、LBAのシーズンが終わったら、そのままイギリスに渡られるそうですよ。あの方にとっては、全日本の活動なんかより、自分の誇りを守ることのほうが大事なんですね」
「はああああ」
空気の抜けるような佳世のため息だった。
「確かに、北崎さんがいらっしゃらないんでしたら、全日本、大苦戦ですね」
「でしょう。時に、池田さん。今回の温泉旅行のことは、北崎さんに伝えていますか?」
「言ってるわけないじゃないですか。あきれられちゃいますよ」
佳世の懸念を尋道は一蹴した。いずれもサボりだ。大差ない。
「よろしい。では、後は、僕に任せてください」
「どうされるんですか?」
今はまだ説明できなかった。何しろ尋道一人ではないのだ。「至上の天才」とのコラボレーションとなる予定だった。よってこれだけ発表しておく。乞うご期待、と。




