第六九三話 クラリオン(一七)
孝子は寝込んだ。帰宅した夜に倒れ伏して、そのまま起き上がれなくなった。原因は明白であった。四〇〇〇キロになんなんとする東奔西走だ。全てを自分で賄ったわけでもないとはいえ、わずかの間に、神奈川県舞浜市から福岡県春谷市へ、春谷から静岡県静海市へ、静海から春谷へ、春谷から舞浜へ、と実にせわしなかった。酷使されたか細い体が音を上げるのも当然といえた。
後で聞けば、丸三日の間、ほぼ眠り続けていたという。そんな孝子の長の横臥が終わりを告げたのは、右頬へのかすかな感触のためだった。はっと見開いた目には、しかし、何も映らぬ。一面の暗闇だ。夜らしい。枕元にあるはずの照明のリモコンを探ると向こうのほうからするりとやってきた。無論、リモコンがひとりでに動くはずはなかった。
「犬?」
とすると、先ほどはロンドが鼻先でつついてきたのか。
「起こしたな」
明かりをつけ、真横にいたロンドを引っ捕らえる。
「おはよう」
ひとしきり愛犬をなで回し、続いて口を突いたのは、お腹空いた、の一言だ。置き時計の表示は、午後一一時半、とある。この時点では、孝子、どれほど自分が眠りこけていたかを把握していないので、丸一日か、よく寝たものだ、などと思い違いをしている。
起き上がった孝子はロンドを抱えて自室を出た。夜食に付き合わせるつもりだった。
「あ! お姉さん!」
DKには佳世がいた。プロテイン飲料の摂取中だったようだ。
「ようやくのお目覚めですねー」
Tシャツにショートパンツ姿の大きな体が寄ってきた。
「心配しましたよ」
何を大げさな、と笑った後に自分の睡眠時間を告げられた孝子は、眉間にきつくしわを寄せた。
「私を担ごうとは、いい度胸だ」
「担いでませんよ。カレンダーは、駄目だ。お姉さん、どれだけ寝ていたか、わかってないんだし。ちょっと待っててください」
DKを出た佳世はスマートフォンを手にして戻ってきた。
「見てください」
日付。確かに、三日、たっている。
「わざわざいじったな」
「そこまでしてお姉さんを担いで、私になんの得があるんですか」
「冗談だよ。ところで、佳世君。お腹が空いたんだがね。私、三日間、飲まず食わずだった?」
「いえ。お水とスムージーを何度か、お部屋にお持ちしましたけど。全然、覚えてないんです?」
「うむ」
「フルーツでも切りましょうか?」
「お願い」
「はーい」
佳世が調えてくれたカットフルーツの盛り合わせをむさぼっているとDKに美咲がやってきた。
「ここにいたか。おはよう」
「おはよう。ママも心配した?」
「別に」
「冷たい」
「これでも医者さ。疲れてるだけ、っていうのはわかってた。それとも、娘よ。枕頭に詰めていてほしかったのかね?」
孝子はかぶりを振った。
「犬だけでたくさん」
「でしょ。あ。お前が寝込んでたのって、この家の人間しか知らないんで。まあ、なんともなかったんだし、黙っていたほうがいいよ」
「はい」
美咲の視線が、じっと孝子に据えられた。
「うん。血色、いいね。この分なら、池田さん、温泉、大丈夫そうじゃない」
「温泉?」
佳世が肉薄してきた。
「岩花ですよ! お姉さん、私、全日本の合宿、蹴っ飛ばしたのに!」
孝子にとって意外の展開だった。なんと、この娘、本当に、やったのか。
「各務先生に怒られなかった?」
全日本女子バスケットボールチームのヘッドコーチ、各務智恵子の反応を孝子は尋ねた。
「怒られましたよ。もう、先生、大激怒。何が温泉だ、ばかたれが、って。しまいには、勝手にしろ、お前のようなやつは、金輪際、全日本には呼ばん、なんて言われちゃいました」
虚勢を張っているわけでもなさそうだ。へらへら笑う佳世は、状況を楽しんでいるようにさえ見受けられた。この、ある種のふてぶてしさには覚えがあった。それは、須之内景あたりが、昨今、醸し出しているものだった。
いいだろう。そのくそ度胸があれば、たとえバスケットボール界から放逐されたとしても、池田佳世、どうなりとやっていけるに違いない。故に、好きにするがよい、と孝子の思考は帰結する。




