第六八六話 クラリオン(一〇)
松波宅を午前六時に出発し、岡宮宅へ到着したのが同日午後五時前とは、都度、ロンドのための休憩を挟みながら来たことを考えれば、上出来といってよい。運転手二人制の効果があった形だ。一人、黙々と走るのも苦にはならないが、これはこれで、と思う孝子であった。
「ケイちゃん!」
車を降りるなり那美が叫んだ。
「お寺に行こう!」
「はあ?」
何を言い出すやら。長旅の直後ではないか。一服するのが常道だろう。付け加えれば、那美の言うところのお寺こと岡宮家の菩提寺、法光寺の山門は午後五時に閉ざされる。もう一〇分もない。
「じゃあ、急ごうよ」
「じゃあ、じゃねえ。お寺さんなんてのは、滑り込みで行く場所じゃないんだよ。暑い! さっさと中に入るぞ」
わめきつつ、車内からペットキャリーを引き出すと、ロンドが、クーンクーン、ときた。
「あ。わんわんも、行きたい、って!」
「違うよ。暑いんだよ、ナミスケ。行きたきゃ一人で行ってろ、って怒ってるんだよ」
「そんなこと、わんわんが言うわけないでしょう!」
ぎゃあぎゃあやっていると、隣家から倫世の母が出てきた。
「おう。早かったな。うわ。なんだ、その車。派手」
「いいでしょう。買ったの」
「おばちゃん! ケイちゃんがお寺に行かない、って言うの!」
「ケイ? なんだって? ああ。ケイトのケイか」
岡宮母子との親交が深い倫世の母は、孝子のニックネームの由来を即座に看破してみせた。
「そう! ねえ、おばちゃんもケイちゃんに言って。私、響子マーマのお墓参りしたい!」
「ほう。殊勝。おい。行ってこい」
「何を言ってるの、たむママ。もう山門、閉まるでしょう」
「電話してやるよ。行け」
前言ならぬ前、考、の撤回だ。一人がいい。黙々でいい。
憤まんやるかたなく孝子は一人と一匹を引き連れて法光寺に向かった。
「ほれ。お参りでもなんでも、勝手にしてこい」
山門をくぐったところで言い放つ。
「ケイちゃんは!?」
「寺務所にあいさつしてくるんだよ。もうとっくに閉門時間は過ぎてるんだし。おら。とっとと行け!」
吹き飛ばし、その場を後にした。寺務所では、持参の土産を手渡しつつ坊守と語らい、そのまま一〇数分だ。
「そろそろおいとましますね」
「うん。お土産、ありがとうね」
「では、ごめんください」
寺務所を出て、気付いた。そういえば那美に墓の場所を教えていなかった。
「いいか」
一〇〇も二〇〇も墓石が立ち並んでいるわけでなし。一つ一つ確認していけばよいだけの話である。果たして本堂横の墓地に向かうと、いた。墓地の中ほどで那美はひざまずいて合掌している。無事に発見できたらしい。
近づいて、気付いた。那美の足元では、ロンドが、こちらは拝石の上にぬかずいている。何をやっているのやら。あきれながら寄って、一人と一匹の背後に立った。
「帰るぞ」
鼻をすする音が聞こえた。立ち上がって、振り返った那美は、目を真っ赤に泣きはらしていた。
「花粉症だったっけ? あれ。夏って花粉、飛ぶんだっけ?」
言うに事欠いての言い草としても、他に思い付かないのだ。
「違うよ。複雑」
「何が」
「ケイちゃんと私たちって、響子マーマが亡くならなかったら会えなかったんだよね。ケイちゃんにとっては、すごく悲しい出来事が、私たちにとっては、すごくうれしい出来事につながったんだな、って思って」
それで、複雑、か。孝子はかがんでロンドをすくい上げた。くしゃくしゃとなで回し、次いで抱えた那美も同じ目にあわせる。こうしておけば、巡り合わせの不思議に感じ入った、と思われるだろう。こうしておけば、しけた面を見られる恐れはないだろう。詮ない。実に、詮ない。これが心からの所感としても、ことがことだった。露骨な表明は慎んでしかるべきといえた。ここは義妹と愛犬の純真に付き合っておく。できた大人の対応とは、こういうものなのである。




