第六八五話 クラリオン(九)
相当に嫌な顔をされたが、なんとか頼み込んで、みさとは尋道との会食を取り付けた。電話番が終わったころに連絡する、と言い残して男は去っていく。斎藤英明税理士事務所と並ぶカラーズのブレーン、相良一能法律事務所に那古野土産を持参するためである。
「よし。あなたたちも行って。もう一〇分ぐらいたってますわよ」
居残っていた麻弥とかなえに対するみさとの告知だった。
「郷本君とは、なんのお話で?」
「土産話を聞くに決まってるじゃない」
「麻弥は、いいの?」
「はあ?」
揺さぶりを掛けにきている。みさとはかなえ副所長の狙いを看破した。尋道の登場で動揺している麻弥を、さらに彼とぶつけて追い込むつもりなのだ。
「ふうん。じゃあ、お昼、一人で行ってきたら?」
「麻弥は、それでいい?」
何に衝撃を受けたのかは判然としないが、先ほどから生気に乏しい麻弥の反応はない。
「いいよ。連れていくよ。わかったら、行け、行け」
かなえを追い出し、みさとは一息つく。
「我が母親ながら、最近の策動には、正直、腹が立つ」
「え?」
「どうせ、郷さんとぶつけて、あんたを動揺させよう、って考えさ。そうは問屋が卸すかよ」
「でも」
麻弥は絶句だ。二の句が来たのは、たっぷり一分ほどの後になる。
「実際、郷本にはかなわないよ。さっきも、言う必要のないことばかりだったし」
「まあ、ね。正直、相変わらずの一言居士と思ったけど」
「なんか、気になって、つい言っちゃう」
「あんたごときに気に掛けられるような男かよ。私でも油断してたら食われちゃいそうな相手だよ」
「……うん」
時間の経過を待つうち、所員たちが、一人、また一人、事務所に戻ってくる。やがて電話番の任務が終わる午後一時となり、一拍置いて尋道からのメッセージが届いた。彼は同じ官庁街にあるすしの名店「英」で待っているという。みさとは麻弥を引っ張って事務所を飛び出した。
さて。着いてみれば、大変だ。奥まった位置のテーブル席にいた尋道は、二人の姿を認めて血相を変えた。
「なんで、二人だ、って言わないんですか。あなたの分しか頼んでないですよ」
「あ。申し訳ない」
「座って」
強い口調で言って、入れ替わりに立ち上がった尋道は、カウンターに向かい、板前と何やら打ち合わせている。
「なんとか、もう一人分、コースを追加できましたよ」
戻ってくるなりの嘆息で、みさとは頭を下げざるを得ない。
「申し訳ない」
「で?」
「で?」
目と目が見合わされる。
「何か、あったんでしょう? 斎藤さんが連絡を怠るぐらいだ」
「おお。お察しのとおり」
顛末を語れば、眼前で、渋面、腕組み、瞑目、というコースが展開される。
「人をだしに使って。無礼ですね」
「返す言葉もないです」
「あなたに言ったわけではありませんよ。ああ。来た。どうぞ」
運ばれてきた一皿目が、並んで座る二人の目の前に置かれた。
「あれ。郷本は?」
麻弥が問うた。
「予算オーバーです。キャンセルしました」
いつの間にか取り出していたスマートフォンを操作しながら、気のない調子で尋道は言う。
「え。悪いよ。お前が食べて」
「結構です」
視線は上がってこない。尋道のスマートフォンいじりは続いている。そうこうするうち電話があったようだ。小声で応対しながら尋道は店の外に出ていった。流れからして、スマートフォンの操作に対応した電話とみるべきだろう。一体、尋道は、何を企図しているのか。
箸の進まぬまま待っていると、戻ってきた尋道に追加のコースだ。存分に睥睨される。
「なんで食べてないんですか。さっさと食べてくれませんか。僕は忙しいんだ」
食欲は、とうに消え失せていたが、食べねば尋道はますます機嫌を悪くする。無理やりにでも、と麻弥を促し、みさとはコースを詰め込んだ。
「終わりましたね。では、事務所に行きましょう」
「郷さん、事務所って?」
「あなたたちの勤め先ですよ。他に当該する事務所がありますか?」
ない。愚問だった。同時に、みさとは悟っている。このような愚問が口を突いて出るぐらいに、現状の自分は尋道に気おされている、と。静観だろう。ここは静観しつつ、態勢を整える。これ以上の右往左往は、尋道氏からの評点を下げることにつながる。ぜひとも避けなければならない事態だった。カラーズの「両輪」の名に懸けて、みさとは心機一転する。




