第六八三話 クラリオン(七)
二人と一匹は、その夜の出発を断念した。長沢の強硬手段にしてやられたのである。気にしていない、むしろ、よい問題提起であった。そうかき口説いても響かない、とみるや、恩師、那美を抱え込んだ。玄関に続く廊下上で攻防が始まった。
「逃さないぞ」
「先生! 私を捕まえても無意味! あの女、平気で見捨てる!」
義妹の評に、孝子はにんまりとした。
「よくわかってるじゃない。あばよ。一週間ぐらいしたら迎えに来てやるよ。それまで小間使いでもやってな」
「ほら! あんなこと言ってる! わんわん! ケイちゃんを止めて!」
「どけ、犬。蹴飛ばすぞ」
絡み付いてくるロンドをどう喝しているうちに、長沢の影が背後に迫っていた。
「捕まえた」
「放せー」
「ざまを見ろー。よし。今のうち! わんわん、行くよ!」
自由の身となった那美が号令するもロンドは動かない。孝子は大笑だ。
「犬、賢いね。その女が文なしだってわかってる。おばさまはしみったれだし、アルバイトもしてないし。なあ」
「あー。言ってやろ」
「怒らせない限り、気前よくおごってくれる相手と、いちいち使い道を言わないとお小遣いをくれない相手。どっちを選ぶんだい? え? ナミスケ」
「ケイちゃんに決まってるじゃーん」
のこのこ戻ってきた那美が、再び長沢に捕らえられた。孝子は同じく恩師に確保されている義妹をののしった。
「何、捕まってるんだよ。ばか」
「なんだ、その口の利き方はー」
「お前たち、仲がいいよね。いくつ違うんだっけ?」
「五つー」
「五つか。それぐらい離れていたほうが、適当な距離感なのかな」
下は遠慮なく甘えられて、上はおうようにあしらえるから、という長沢の分析であった。
「性別にはこだわらないけど、私も、できたら二人、欲しいな」
「できたら、じゃないですよ。断固として作るんです」
「そう簡単にはいかないよ」
「何を言ってるんですか。職場のことをおっしゃってるのでしたら、今こそ、松波先生が家庭を顧みず、ナジョガクさんで築き上げてきた影響力を行使する時でしょうよ。誰にも文句は言えないはずです。できないとは言わせません」
矛先を向けられた松波翁は目を丸くする。
「またケイちゃんが、ずけずけと」
「いい、いい。これで嫌われるなら、それまでの間柄、ってこった」
「嫌わない、嫌わない」
松波は首を左右に振った。
「家族じゃ、遠慮もあって、言いにくいことだったけど、そこのところを神宮寺さんはたたき壊してくれたよ。ありがたい。実に、ありがたい」
「でしょう」
「うん。美馬さん。学校には私、家には母さんがいる。何も心配はいらないからね」
「は、はい」
そうと決まれば、だ。
「長沢先生。励んでください。五つ違いだと、長沢先生、順調にいっても二人目の時は四〇過ぎてますよ。ほら。私たちになんか構ってないで」
言うに事欠いて、であったろうが、これは孝子の作戦だった。長沢が気を抜いた隙を付いて逃れ出る。ところが、
「いや。放さない。前は、みすみす逃して、一晩中、心配してたんだよ。同じ思いは、二度とごめんなんでね」
事情は異なれど、前回の訪問時にも松波家から遁走していた孝子だ。いかなふてぶてしい女でも、面と向かって前非を指摘されては、鼻白まざるを得ない。ここまでだったろう。孝子はあらがうのをやめた。
「仕方ない。これ以上、ここでもめてると、お二人の励む時間がなくなるし」
「そうだよ。私たちのために、おとなしく泊まっていけ」
負け惜しみは軽く流され、かくして攻防は終結したのである。




