第六八二話 クラリオン(六)
待望久しかった恩師との再会というのに。豪勢な仕出しを囲んでのだんらんが始まったばかりというのに。孝子は不機嫌だった。原因は、長沢が持ち出してきた話題にあった。尋道に突っぱねられたとかいう舞姫講話を、今度は孝子に依頼してきたのだ。
嫌である。そのようにつまらない話はしたくない。第一、舞姫の内情など知らぬ。
「長沢先生。私も部外者ですよ。中村さんと井幡さんにお願いしてください」
「いや。郷本にも言ったけど、そこまできちんとしてなくていいんだよ」
常人であればさしたることではなかっただろう。しかし、そこは孝子だ。言い返してくれるな。くどい。許さぬ、となる。
「人の進路と思って。いい気なものですね。私には、とてもなれない心持ちです。お断りします」
言ってやって、まだ収まらないので、続ける。
「なんですか。絶対に、今、持ち出さなくちゃいけないような大事でもないでしょう」
ふと呼び起こされた記憶があった。ぶち込んでやる気になった。
「さっきから長沢先生以外、誰もしゃべっていませんよ。わきまえてください。そうだ。少し早いですけど、正治さんとの門出に際して、一言、贈らせていただきます。カラーズでやっていると、いろいろな話を聞く機会がありまして」
とある学生スポーツの著名な指導者についての逸話だ。
「その方、年がら年中、部活にかかずらって、家庭を顧みない方だったそうですよ。おかげで、お子さん、そのスポーツを超嫌いになったって。で」
かっと孝子は目を見開く。
「後年になって、その方の元に、かつての教え子が訪ねてきた時、ですね。教え子の方も同じスポーツの指導者になっていて、今は子育てで忙しいけど、早く復帰したい、みたいに息巻いていたそうです。でも、その方、おっしゃったとか。自分は、これこれの理由で家族に大変な迷惑を掛けた、君もほどほどにね、って。長沢先生。どうぞ、その方の轍を踏まれませんように」
直後に喉の奥を鳴らしたのは松波翁だった。
「顧問あるあるだねえ。私も身に覚えがある。というか、神宮寺さん。とあるスポーツなんて、ぼかしてくれたけど、それ、僕のことだよね?」
「はい」
真実なので、一切、悪びれずに孝子は応じた。
「誰に聞いたの?」
「池田佳世です。たまたま近くにいて、お二人の話を聞いていたそうです。松波先生が、すごくしんみりされていたのが印象的だった、って」
「うん。しんみりもするよ。正治は、東京の大学に行ったんだけど、そこから二〇年近く、うちに寄り付かなかったんだよね。あっちで就職して、転勤でこっちに戻ってきてたのも、うちには知らせてこなかったし」
「恨み骨髄ですね」
「本当に、ね」
孝子は正治のほうに顔を向けた。
「そんな正治さんが、よく、こんなお父さまとそっくりな人を選びましたね」
「え。まあ、バスケうんぬんじゃなくて、美馬さんの人柄に引かれたわけだし。そこは、あまり大きな問題じゃなかったかな」
苦笑を浮かべている正治だが、甘い。
「ご自分は、ほれた弱みで、それもいいでしょうが、困るのは次ですよ」
松波家の人たちが一斉に、はっとなった。次といえば、夫妻の子、老夫妻にとっては孫、その人に他ならない。
「順調にいけば正治二世が出現するでしょう。松波先生。悔いる気持ちがおありでしたら、この甘っちょろい二人に任せるんじゃなくて、松波先生が指導、監督すべきです。幸い、松波先生は長沢先生と同じ職場の上司でおありですし、いくらだって介入できます」
「まあ、そう、なんだけど」
「煮え切らない人だなあ」
当たるを幸いである。さらなる一撃を、と身構えたところで、脇にいた那美が声を上げた。
「ケイちゃん。食べ終わったよ」
見れば、那美は、一人、黙々と食事を取っていたのだ。
「何。いきなり」
「ケイちゃん、ずけずけ言い過ぎ。この後、楽しい夕べなんて絶対に無理でしょ。もう行こう。夜だし、オープン状態で高速を走ってみたいー」
「え!? 待て、待て。今からはやめろ。福岡まで、どれくらいあると思ってるの!?」
長沢は色を失っている。
「知らなーい。でも、大丈夫。私も運転できる。交代で仮眠すれば、行ける、行ける」
「那美!」
沈思は、義姉の発言をそしゃくするためであった。確かに、言い過ぎた。踏み込み過ぎた。この上は退散するべきかもしれなかった。それに、夏の間は考えていなかった幌を開けての走行、という那美の提案も一興に思える。
決めた。出る。孝子は決断した。




