第六七話 姉妹(二〇)
そういえば、と静が言ったのは、全員が入浴を終え、くつろいでいたときだった。場所は、離れの次の間だ。隣では春菜と北崎夫妻が夕食の支度の最中である。賓客の五人は待機を要請されていた。
「佳世ち、春菜さんがいなかったら、バスケやってなかったかも、って言ってたじゃない?」
「はい」
「あれ、どういう話? 差し支えなかったら、聞いてみたいな」
ここで静は、にやりとする。
「春菜さんがいたら、別に何もありませんでした、以上、で終わっちゃいそうだし。今、聞いてみた」
「はい。あの、私、ナジョガクには高校から入ったんですけど、それまでは、割とのんびりとしたところでやってたので、ちょっと……」
六年間、手塩にかけて、が松波治雄の育成方針だ。しかし、例外的に、これは、と認められる逸材については、中学生を勧誘することもある。池田佳世は、紛れもない逸材だった。一八九センチの長身と優れた身体能力は、米国人の父親から受け継いだものだ。高校では非公式の試合で、ボールを直接、ゴールに入れるダンクシュートを決めたこともある。一〇〇年に一人、とも称されるのは、決して大げさではない。
好々爺におだてられるままに入ったナジョガクで、佳世は大きな挫折を味わうこととなる。割とのんびりにしかバスケットボールをやっていなかったおかげで、ナジョガクの猛練習に付いていけなかったのだ。この点については、時間が解決したかもしれない。しかし、佳世には、もう一つ、重大な欠点とされるプレーの特徴があった。生来の気弱さと、肉体的苦痛への忌避で、押し合いへし合いを好まず、外へ、外へ、と逃げることだ。一八九センチの長身選手に、許されるプレーではない。当然、コーチ、先輩に怒られる。松波も、さすがにきつい言葉こそ投げ付けてはこなかったが、面談の中で、やんわりと苦言を呈してくる。期待の一年生の心身は、入学後のわずか半月で疲弊の極みにあった。
その日、佳世はトイレと偽って練習を抜け出し、更衣室でぼんやりとしていた。心底、バスケ部を辞めたい、と思っていた。しかし、スポーツ特待生として入学した以上、部活を辞めれば不都合が、間違いなく、いろいろと起こるだろう。放校されるだろうか。違約金みたいなものを、請求されるだろうか。そうなれば、両親に迷惑を掛けてしまう……。佳世の頬を涙が伝った。
更衣室の扉が開き、入ってきたのは三年生の北崎春菜だった。特進コースに在籍しているので、部活への参加が他よりも遅いのだ。特になんの反応もなく、春菜は着替えを始める。このナジョガクの誇る偉大な先輩は、同輩、後輩にかかわらず、私語をほとんどすることのない孤高の存在である。佳世もまた、あいさつ以外で春菜と話したことはない。
「北崎先輩……」
「うん?」
「こんにちは」
「……こんにちは」
更衣室を出ていきかけていたジャージーの背中が止まった。後で聞くと、少しおかしくなってるんじゃないか、と思って、気になった、とのことである。佳世としては、あいさつをするのを忘れていた、というだけの理由だったのだが。
「向いてない、って、松波先生ならわかりそうなものだけど」
戻ってきた春菜が、佳世の前に立った。
「期待したくなるんだろうね。でも、池田に五番、四番は無理。三番がいい。二番でもいい」
五番はセンター、四番はパワーフォワード、三番がスモールフォワード、二番がシューティングガード、一番がポイントガード。バスケットボールにおけるポジションを番号で表現した呼称だ。一般に番号が小さいほど、外でのプレーの頻度が高くなる。
初めて現れた理解者に、佳世はわれを忘れた。立ち上がり、ほとんど触れ合わんばかりの距離で春菜の顔を見る。佳世は全てをぶちまけていた。練習のつらさ、指摘されたポジション適正、果ては退部したときの違約金への不安まで、全てを、である。
「私とやろうか」
聞き終えての、春菜の返答だ。体育館に戻ると、案の定、佳世を怒号が迎えた。しかし、春菜が左手を突き出して、これを制する。
「松波先生。池田は私が指導します。口出しは無用」
全員が初めて聞く大音声に、体育館の中は静まり返った。
「うん。わかった」
そして、松波治雄は、どんなときでも春菜の言に否を告げることはないのだ。
「支度ができましたよ」
次の間に春菜が顔を出した。
「おう。お前、かっこいいな」
「何がです?」
「春菜さんが佳世ちを助けてあげた話、聞いてたんです」
「おしゃべり」
視線を受けて、佳世が首をすくめる。
「車の中でも進路の相談に乗ってあげてて。佳世ち、舞浜大だって。お姉ちゃんたち、後輩になったらかわいがってあげてよ」
「後輩思いのいいやつだな、お前は」
「正村さん、やっつけますよ」
フッフと鼻で笑い、麻弥は応じる。
「照れてるのか。かわいいやつだな」
「やっつけます」
あっという間に押し倒された麻弥の上に、春菜はのし掛かる。
「重い。どけ」
ここで春菜の上に、さらに那美が覆いかぶさった。
「ここで麻弥さんを亡き者にして、メロンを独占する」
「まだ食べる気か、お前は!」
「……あの二人を連れてきたのは失敗だったかも」
あきれたようにつぶやいた孝子は、静と佳世の肩をつつくと隣室への移動を促すのだった。




